2017年01月26日

〈38〉白石って、どうよ

今年のセンター試験、フタを開けてみたら、あれあれ、
新井白石の日本漢文ときた。
これには、賛否両論のようである。

今の日本人だって、医学部でも英語で研究論文を読み書きするのが普通である以上に、
聖徳太子から江戸時代に至るインテリ和人が、漢文を受容しさらに駆使し、
漢文で書物を著すところまで自己化していた。白石の漢文は、そのほんの一例である。
かつては追試ながら、頼山陽の漢文の出題があった。
また、私の手元には、私立大の出題であるが、かの水戸光圀の漢文なんてのもある。
その意味では、和人の漢文だろうと、本場中国の漢文だろうと、遜色はないのであるし、
漢文受容の歴史から言えば、そういうのもあっていい、とは思う。

『白石先生遺文』の冒頭、まえがき的な部分。内容は比喩的評論文であり、こういう論理性を
和人は漢文で表現できたのだと知るのには良い資料だが、展開も設問も「漢文らしくなく」、
個人的にはどうも面白みに欠ける。
こういう抽象論は、東大の理系の二次あたりで記述式で出せばいいんじゃないか、と思う。
だって、漢文のネタは古文とちがって、それこそ無限にあるわけで、もっと理系にとって優しい素材を
探してほしいものである。まあ、漢詩文の出題よりも、これはハレー彗星のごとく、
中々お目にかかものではないだろうから、記念碑的に、解析にとりかかっている所である。
……授業では使えないかなあ・・・来年東大受験生がいたら、改作して使うかな・・・・等々。

posted by Kyuzen Ichikawa at 10:41| 閑綴帳

2016年12月30日

〈37〉 平成二十八年 回顧

GHSでの今年の授業を振り返ってみたい。
前期は、第1回〜11回まで、週一回60分の授業。
ホントウは物理や化学の時間までもずーっと漢文をやっていたい
というのが本心ではあるが、社会常識的には、このくらいの軽目のスタートがよい。

この間は、GHSのHPのテキスト公開コーナーにもアップしてある
「漢文基礎句法ドリル」テキストにそって、「漢文単語50」を5つ位ずつ紹介しながら、
ドリル1〜8をこなしていくメニュー。この間に『漢文解析』の読書を課した。

7月に入ると、時間は80分に拡大。最初の20分は、実際に過去問を解いて、
その後に解説。ものによっては解説は二週にわたるこもあるが、このスタイルが、
第12回〜25回まで続く。そして12月内で終了となる。
この間に、扱う過去問は11題。漢文の解析例としては充分な数と思っている。
また、漢文の精神世界と、漢文世界の地理とを知り、ひいては我々和人にかかわる
漢文の伝統を知るには適切なボリュームである。
年間授業計画とテキスト・解説のデータ化はほぼ終了しており、
GHSの独自カリキュラムとして確立したのが、本年の収穫であった。

ここからどこへ行く?「同じことを教えるようになったらエンドだ」と
言っていたではないか?との熱心な読者からの声も聞こえそうである。

センター試験はすでに30数年の歴史があり、本試・追試をあわせると
その倍の過去問があるわけで、趣味(?)としては解析例を増やしていき、
生徒の独習に供する作業はつづけたいし、漢文句法ドリルは、実はまだ、
前半部分でとまっていて、後期の授業で実戦的にとりあげる句法についても
ドリルをつくっていきたいと思っている。
・・・・・時間があればだが。ご存知の方には繰り返しになるが、
本業に加えて、物理や化学のあれこれがその時間に食い込んでくるので、
もどかしい。せめて来年は、漢文の愉悦に浸る時間がもう少し取れますように。
posted by Kyuzen Ichikawa at 03:29| 閑綴帳

2016年05月30日

〈34〉「将」という時制

単純未来と意志未来
漢文の時制、とくに未来時制について考えてみたい。
その代表はである。「まさに……とす」
ご存知のように、英語には、単純未来と意志未来があると教わる。
ならば、たとえば、
  始皇帝 将死    
はどうであろうか?
「自分の意志で死んでいくわけではないから、単純未来かな?」
答えは否である。「意志未来」である。
もっとも、漢文的「意志未来」であるが。

いや、そもそも英語の「単純未来」ってなんだよ!!と
素朴な疑問をかつて抱いたことはなかったかな?
「意志未来」の反対語は「無意志未来」であるはず。
「意志」の反対がなぜ「単純」か? 
    It will be fine.
のような自然現象は人間の意志と関係ないから、
「意志なるものは介在しない」という含意で「単純未来」と
いうのであろう。
いや、これは東洋と西洋の大きなちがいが背景にある。
そこに気づくのが漢文の学びである。
西洋にキリスト教の神は全知全能なれども、
天気ごとき瑣末な自然現象をいちいちコントロールはしない。
創造主は、理性が支配する、合法則的な宇宙を作り上げたのちは、
その法則にしたがって、自然は動き続けるのである。

ところが、和人は、明日の遠足にもてるてる坊主をつくる。
雨乞いの名残りで、お祈りをすれば雨が降ることもありうる、
千変万化な自然の中にいるからこそ、意味をなす行為である。
端的には、サハラ砂漠で雨乞いをしても笑止ということだ。
そういう気候なのだから、祈りは無駄なのである。
西洋で有効なのは、むしろ日食や月食の予言者の方である。

東洋の、そして日本の神々は、生活のあらゆる場面を支配する
意志をもつ。だから、受験生は学問の神様とやらにお守りをもらい、
小さい子供でさえ、迷ったときには
「どちらにしようかな、天の神様のいうとおり・・・」
とやる。ウチの娘がどらちのシャンプーを使うかごときで「神様」に聞く。
「そんなことをいちいち聞きとどけて判定しているとすりゃ、
こりゃ神様も忙しくてたまらなん( ´ ▽ ` )ノ」とツッコミをいれたくなる。

だから、はじめにもどるが、
    始皇帝 将死   
は単純未来などではない。「天」の命によって皇帝となったと同様に、
運命を司る天の意志によって、「死」を迎えようとしているのである。

   天将以夫子為木鐸   

「天は、まさに貴方様を天下の指導者にしようとしているのです。」

この文の主語が「天」であることが何よりの証左である。
 漢文の未来時制には、人間の意志未来と、天の意志未来がある、
と捉えておこう。東洋世界に、単純な未来などはないのだ。

posted by Kyuzen Ichikawa at 19:44| 閑綴帳