2014年11月04日

〈17〉『漢字海』のこと

実にナウい
『思練・漢文解析』の巻末に、いくつか文献を挙げておいた。本書の読者の方々は、想定以上に平均年齢が高いこともあり(⌒_⌒; ……たとえば、本書の背景に時枝誠記氏の言語過程説を見て取った方もいるほどに(いゃあ恐れ入った、スゴいもんだ!!!)知的教養レベルが高くて、むしろ私としては我が意を得たりという面もあり実に愉しい。

 その中で、漢和辞典の『漢字海』を参考文献として紹介したが、これについていささかコメントしておきたい。
端的には「画期的」である。それまでの漢和辞典は、どうにも私の「心の襞」(出典は小椋佳)に響かなかったのであるが、この辞典は新奇モノ好きの私にとっては、まさに一瞬でその価値を見切ったものである。我々(?)の時代のコトバでは「ナウい!」という代物だ。
 なんといっても革新的なのは、漢字の意味が品詞分類に基づいて記述されていることである。それを眺めていて、漢字というものが、語形を変えることなく(当然のこどだが)品詞的にスライドしていく歴史が見えて来たのである。動詞が助動詞化し、副詞が接続詞化し、形容詞が動詞や名詞に転化していく言語的時間の流れが、この辞典に対面していると自然と浮上してくるのである。
 その成果が、たとえばの多品詞性の解明であり、また、掘っても掘っても出てくる疑問語・反語の系統的整理などである。漢字というものはゴマンとあるのであるから、知識の収集のためには漢字辞書は必須なのである。だから、こんな相性の良いモノに良い時に巡りあえてラッキーであった。なんとなれば、私が受験生時代(昭和〜平成)には、この辞書はなかったのであり、東大入試の漢文の勉強は、漢和辞典なしの状態であったからである。
 なにごとも、知識がありすぎると収集がつかなくなるということも真理であり、漢文法の原型を作るには、漢和辞典なしで充分なのであった。例外や破格が目につくようになると、筋の通った文法論などできないものである。
 一定の土台の上で、漢文を講義するようになって出会った辞書だからこそ、今回のように縦横に使うことができたといえる。その意味では、理系受験生にこの辞書を使いこなすことをぜひにと要求するものではない。そのための『漢文解析』および連載である。参考文献としての推薦の辞は、お世話になった感謝をこめてのものである。

友人であっても生き方はちがう
 気が合う友であろうとも、生き方はそれなりにちがうものである。『漢字海』との価値を認め、また相性が合うとはいったが、それは他の漢和辞書に比してのものであり、文法論的に意見が一致するのは、70%くらいではないかと思う。あとがきに「私製文法」と断ってあるように、権威筋に認めてもらおうなどとは露も思っていないし、『漢字海』のよって立つ文法論(巻末にある)を一瞥しはしたが、ここに学んだことは皆無である。『漢文解析』はあくまでも自家製。これに共鳴したり、賛同したり、役立ったといってもらえればそれでよい。
 仮に、『漢字海』の文法論で事足りるなら、それを受験生に推薦すれば事足りよう。しかし、それでは叶わぬと思うからこその『漢文解析』の公開である。他に類あらば、わざわざ表に出すことはない。一部にはご存知のことと思うが、私的には、本職としてのGHSでの物化の指導と、本業とで多忙な身である。その時間を割いてまで書を物する営為には、既存物の地平を越えんとする企図があるからである。
 訓読法のもつ両面性が、現代の受験生に高いハードルを課している。それは漢文が敬遠の対象となっている一因である。それらのなかに無用のものがあれば取り払って、別の道もあるのを示すこと。それによって、本来の漢文の価値・魅力に少しでも多くの若人が気づいてもらえればそれでよいのである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 00:29| 補筆漢解

2014年09月04日

〈13〉ラテン語と漢文と古文

ラテン語と漢文
 『漢文解析』の第1章では、ラテン語と漢文の共通性にふれた。
それは書き言葉であったゆえに、話し言葉と違い、文法的な揺らぎがほとんどなく、だからこそ、千年の時を越えて、本書において、文法論的に筋を通すことが可能であったわけである。
 特に漢文の文法的ベースとなるのは、科挙によって試験科目に指定された儒教の聖典であったから、それを暗唱するほどに学んだ者が官僚となり、漢文で記録する際には古典の漢文法が忠実に守られたのである。
その役を果たしたものという視点をもてば、西欧ではラテン語で綴られた聖書が代表であったし、書き言葉に限定はされないものの、アラビア語文法の模範としてコーランの文章がある。その各々の文化の射程にある人が、共通の文法的模範をもつことは、一つの言語が確定しそれを維持するにに不可欠のことであるようだ。

古文と漢文
 そうしてみると、我が「和古文」の文法論はとても難しいと感じるのである。ヤマトのコトバがまだ成熟し固まらないうちに、漢文の文化が輸入され、そこに漢訳された仏教文化がかぶさり、さらに戦国時代あたりからは儒教的漢文も重なり、その過程では、漢字仮名まじり文という独自のスタイルの日本語がゆっくり醸成されていくという重層的な構造がある。だから、和古文の文法を語るには、その変化・変遷をまずは漢文の文法の絡みにおいて説かねばならない。
 それはたとえば、『漢文解析』でも諸処に触れたが、その代表例は、(ani)が何以(kai)の表音文字だ、ということだけでなく、(nani)はその音韻変化であり、つまり、「何?」は和語ではなく元々外国語だということである。
もう一つ象徴的なのは、形容動詞の問題である。これも「漢語音そのまま」+「あり/たり」という造語であることは本書に説いたとおりである。
 現代日本語はさらに、明治以降(実は江戸末期から)、西欧語の影響を受け始めるから、現代日本語の文法を語るのは、まるで、しっかりと煮込んでとろとろになったソースの原材料を当てるくらいに難しいという自覚がなければなるまい。比較言語の目とともに、言語の過程性をみるという複眼でなければ、その試みは‘蟷螂の剣’となってしまうだろう。
まずは、そのソースの明らかな原材料としての漢文の文法をしっかりと捉えることが、和古文の文法を語るための前提と思われる。「古文が苦手だ」という高校生はほぼ100%といってもよかろうが、上で説いたように、受験科目の中でもっも構造が複雑でありながら、基礎となる文法論が整っていないのが「古文」であるから、しかたない、ありたまえのことなのだ。

 いずれ取り上げてみたいが、かの本居宣長が、江戸時代にあって、あれだけ見事なレトロな日本語を操った文章をものすことができたのは、漢文の実力が相当のものであったからではあるまいか。でなければ、かなりに煮込みが進んだ江戸時代の‘現代語’から、漢文的要素を掃き出しつつ、漢文がとけ込んだ熟成期のヤマトコトバを選り出すことはできなかったはずだからである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 22:34| 補筆漢解

2014年08月24日

〈12〉 新聞伝配 -お知らせ-

  育文社から知らせがあり、おかげさまで、四月発売の『漢文解析』初版は残部僅少にて、
この10月には、重刷すべく準備に入ったとのこと。読者からのお便りを色々といただいていて、
育文社に届いたものは、GHSにて拝見させていただいているが、本当に想定外に、
読者層が幅広く、ここで紹介した方の以降にも、さらに50-60代の方からのお便りが
見受けられる。改めて、教養としての漢文の存在感の大きさを再確認していることである。

さて、重刷となれば、初版・1刷のバグを修正するチャンスである。
車で言えばマイナーチェンジである。小さな修正ならば、おなじ原版を利用して修正した上で
印刷するから新たな費用はかからない。(それが、新しい印刷原版を起こす「改訂」との違いである)
前回、ご指摘いただいた箇所についても、この機会に1刷の読者に向けて、以下のように
訂正する予定である。
---------------------p.152 上段・9行目〜17行目------------------------
 では問います。一到はどうして「(精神を)集中
する」という意味になるのでしょうか?ここでこそ
文法力の発揮です。精神は名詞であり、は動詞で
す。「到達」「到来」「到着」という例でわかるよ
うに、(a)で出て来た=です。その基本的意味は
「ある場所に向かう」ということですが、ここは他
動詞で「〜を向かわせる」であり、は「一つ
所に」という副詞(!)ですから、一到は「1点に〜
を集中する」(=concentrate)となります。つまり、
目的語精神が先置された、第3文型の強調形です。
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1刷を精読された読者の方で、修正点等を発見された方はぜひとも、
重刷に反映させるべく、本HPの「以信伝心」を通してご一報いただきたい。
posted by Kyuzen Ichikawa at 23:48| 補筆漢解