2015年04月24日

〈23〉「完結」ということ

漢文解析講義は「完結」へと向かう
 この間、しばらく空いたが、年度末初の色々(娘の入学式なんてのもあり…)に重なっての、
『医大受験』vol.15の原稿のやりとりがおわったばかり。
漢文解析講義は、前回書いた勢いで、今年のセンター試験の文法解析をしておいた。
一回で「完結」するようにと書いたら16ページに及んだ。
問題の4ページを除いても12ページの‘大作’である。
 センター試験漢文ごとき(?)にこれほどの字数を費やして解説しているものは他にはあるまい!
と言い切っていいんじゃないかな・・・。というのも、コンセプトはあくまでも、
その問題を解けるということにとどまらず、その問題を通して何を学かというものだからであり、
素材はセンター試験であろうと、二次試験のものであろうと関係はない。
 「大作」などといっても、100分の授業をすれば、この程度の内容は
板書し、しゃべるわけであって、文章化するから、ちと大変なだけである。

『医大受験』は次回で丸4年となる。センター試験の漢文解析例はすでに9つに達した。
次回でキリがいいから、漢文解析講義はこれで「完結」にしようと思っている。
上に述べた事からわかるように、ほぼ10回分のGHSでの授業を文章化して再現したのであるから、
もう十分であろうという気持ちである。おまけに、東大理系漢文の解析も4年分ある。
それにベースの講義としての『漢文解析』があれば、それはもう
独習が可能な素材を提供しえたといってよいのではないかと感じている。

「完結」へ向けての特講あり
そういう思いもあって、今回は、記事の中に「特別講義」として
二つのテーマに着いてこれまでの「まとめ」も書いておいた。
一つは、関係詞の用例と用法のすべて、もう一つは、の歴史的変遷についてである。
とくに後者は、現代中国語でのhaveに似た用法と、漢文での「存在する」という意味とを
つなぐロジックをはじめて展開したものである。
『漢文解析』では、入門編という位置づけやらページ数の関係などで、
割り切って簡潔化した部分もあり、読者から質問や意見があった部分である。
 時間的制約から、個人的には返信できていないので、該当される方は、
是非に今回の記事を参照していただくようにお願いしたい。

そしてそれとともに「市川久善」という存在もまた ‘完結’ へと向かうことになるだろう。
ご存知の向きもあるかと思われるが、私は漢文を生業とするものでもなく、
いわゆる漢文業界に関わるものではない。
私の個人的なものすぎない漢文の学びをここまで客観的データとして形にし提示できたこことで、
もう十二分であるとの思いがある。
その意味で、『漢文解析』に続編はないし、今後改訂もないことはここで明言しておきたい。

GHSでの講義はつづく
 だから、公な存在としての「市川久善」は、次回の『医大受験』とともに完結する
ということにしようと思っている。
とはいえ、GHSの国立志望の生徒がいる限りは、漢文の授業自体はつづくのであるが。
 ここまでは、講義と連載とが互いに補完し合うかたちで進めて来た。
授業での講義データが、連載原稿としての校正を通してブラッシュアップされ、
それが講義に反映されるという関係だ。
それも連載回数的に目処がついた段階で、新年度を迎えることとなった。
今年もGHSには文系も含めて10名を超す漢文受講者がいる。(注:全体で30数名である)

 そこで今年度は、「漢文の授業らしく」やろうと準備をしている。
そのココロは、伝統的な「訓点・返り点」にはじまる市販の問題集をベースにして、
順番はそのままに、『漢文解析』のテイストで説いていく、というスタイルである。
 今手元には、三冊ばかり売れ筋と思われる句法練習の問題集を買ってある。
見事といいうる点は、著者も出版社も違うのであるが、構成がほぼ同じで、説明の仕方も
横一線で区別がつかないという点である。
つまり、訓読法の教え方というものは「完結」しているということである。
やはり歴史と伝統(といっても訓読法が普及したのは江戸時代以降であり、
明治時代に法令で標準化がなされたにすぎないが・・・・とその一つに書いてあった)に、
孤高に立ち向かうより、大船にのった方が安心安全であり、
「文句あれば訓読の歴史に言え、ご先祖様にもの申せ!昔からそうなんだから、
私にいわれてもどうしようもないよ」というスタンスがとれるものだ。
 『漢文解析』はそれを解体して独自の構成としたが、
その「完結」を受けて、今度は旧来の流れのままで(その方がなじみはあるだろうし)
似て非なるものとして説いていく予定である。

ヤマトとハーローック
 ともに松本零士原作のアニメだが、それが人びとの共感と熱狂を生んだのは、
その共通項として「大きな敵に、たった1人で立ち向かう」ということにある。
ヤマトでは大ガミラス艦隊をヤマト一隻で撃破していくという、
現実には中々ありえない世界である。そういえばファーストガンダムもその線上にある。
また、1970年代にベストセラーとなった『かもめのジョナサン』も、
日常の当たり前を否定しての孤独なチャレンジがテーマであった。
中高を通しての愛読書であり原書でも親しんだものである。
 まあ、『漢文解析』ごときで孤高のヒーローを気取るつもりはさらさらないが、
誰も歩いていない道なき道を進むのは、そういう中で育った世代としては
何の抵抗もないし、むしろ愉しみを覚えるのは確かである。
「♪ 君が、気に入ったなら、この舟に乗れ ♫」と水木一郎が唄ってくれたように、
この旅をともに続けたいという仲間がいればそれで充分かなと思う此頃である。
posted by Kyuzen Ichikawa at 12:18| 閑綴帳

2015年03月21日

〈22〉今年のセンター試験によせて

信州の春
ここしばらく、早めの春休みをとり、受験の関係から距離を置いてみて、
HPのことなどもしばしあえてすっかり忘れて過ごした。
『医大受験』vol.14が2.20に出て、次回まで3ヶ月のインターバルもある。

何よりも信州にすんでいると、春の足音が本当に聞こえるのだから、
……日差しも、風も、空気の匂いも、また山の色も、木々の枝先もすべて
春に向けて動き出しているのを感じて、外にでる時間が増える。
スーパーの地野菜コーナーに並ぶ山菜が少しずつシフトしていく。
そろそろ野菜の種や苗をホームセンターに買いにいかねば・・・。
今年は、小学生になる娘が、家庭菜園の水やりお当番をしてくれるそうだし、
一緒に小学校に通う女子軍団(?)も収穫等に参加するそうだから、今年は植えるものも
ちょっと趣向をかえようか・・・・・・まあこんな平穏な信州の春をすごしている。

で、ぼちぼち新年度のことや、『医大受験』vol.15へと気持ちは向いている。
・・・というか、漢文だけはすでに原稿は9割方できている(^-^*)ノ
ちょっと時間があくと、こつこつ(≒だらだら)と書き重ねているのである。

センター試験漢文の想い出
次回は、今年のセンター試験の問題を解析することにした。
今までは過去問から「漢文らしいもの」掘り起こしてきたが、今年の出題は、
多くの点で、センター試験としては不適切だった昨年の反省もあるのだろう、
難易度はしっかりと考慮され、訓読と句形・句法をまじめにやっていればできるように
しっかり調整されている。むしろちょっと易しいかなというくらいヒントも語注もついている。

さらに、『漢文解析』に学べば、さらに見通しよく,迅速に、自信を持って
満点が取れるのはもちろんだ。その余裕と自信が、古文や現代文にもよい勢いをもたらす。
・・・・ちなみに、私はかつて、センター試験国語は、漢文からと決めていた。
当時は、4問で80分だったが、現代文はなるべくしっかり読みたいので、
漢文、古文をいかに早く解いて、時間を稼げるかということを懸命に模試で練習した。
ともに15分で解ければ、現代文や小説は25分ずつかけられるからである。
もっとも、早くても自信満々の満点でないと意味がない。
気になってもあとで見直すヒマなどはないのであるから。

「置き字」とやら
今年のセンター試験問題では、「置き字」が設問の対象となったのが痛快である。
矣、也、焉という3種類の文末「助字」の読みと意味を問うという、
訓読派からすればちょっと避けて通りたい問題である。
だって、「置き字」とは、書いてあるけど無視していいという扱いだから、
受験生としては、「だったら無視しよう」となる。なにせ何かと忙しいのだから。
しかし、『漢文解析』に説いたように、無視してよく何の意味もない漢字を
わざわざ書くわけがなかろう。意味があるから書くのだ、というのが
本来、当たり前の、素直に考えた時の思考のはずである。
それは誰もが漢文の学びの初歩に感じる疑問なのだが、どこにも答えがないし、
無視してよいということだから、ついには疑問に感じず、存在さえ無視して平気になる。
しかし、「王様は裸だ!」と叫ぶ子どもが実は正しかったように、
そういう疑問を結果的に圧殺していく教育は「どこかおかしい」と思わなければならない。
少なくとも、本物ではない。

その私なりの「解答」を『漢文解析』に書いた。誰に聞いたわけでも、
どこかの文献を参照したわけでもなく、
自分の語学的経験と思考力だけで出した「答え」である。
もちろん、私自身は、訓読の歴史なんぞにはまったくのシロウトだから・・・
(だからこそ『漢文解析』が書けたのだ! 漢文の世界の住人には色々と制約があって
色々なしがらみが気になってムリでしょう)
・・・この説がどういう位置どりなのかはわからないし、諸説に関心もないが、
自分のなかではこれ以上の「答え」はないと合点できているからそれでいいのである。
私は「理屈抜きに覚えなさい」という言い方が昔から大キライで、
それはセンセイ達の逃げ口上に響いた。
せめて「私も疑問に思うが、今は解決されてない」とでもいってもらえばよかった。
そんな沢山の持ち越して来た「漢文」の疑問の数々に、
ようやく自分で答えを出せるようになり、書となった。

センター試験の解説ごときに、雑誌サイズで10ページを費やすという、
まず「ありえない」連載だが、漢文にセンター用も東大用もない。
どんな文章からでも文法は学べるし、発展させる契機がある。
それを当然のように受け入れ、フルサイズで公開できる環境を提供してくれている
育文社編集部の度量もまた「ありがたい」。
posted by Kyuzen Ichikawa at 17:16| 閑綴帳

2015年02月14日

〈21〉あっぱれ、名大!!

 青色LED実用化の発端となった発見は、名古屋大学系の研究者によるものであった。
かつては「ノーベル賞といえば京大」という時代が長くつづいたが、ついに名古屋大学にも脚光が……
というような話ではない。さすがにそこから漢文のネタに強引にもっていくのはムリである。
たしかにノーベル賞もあっぱれなのであるが、実は漢文の視点からあっぱれ至極なことが名大にはある。

 2/20発売の『医大受験』の漢文の冒頭にも少しふれたのだが、ここで若干補足・敷衍しておきたい。なにが「あっぱれ」かというと、名古屋大学・医学部に合格するには、二次試験で国語が必須であり、なんと古文・漢文まで課している!!!!!!!という事実である。
 すでにご存知の方には「今更〜?!」とか言われるかもしれないが、さすがに東京新宿にあるGHSから名大医学部を志望する生徒はこれまでいなかったこともあり、(それでも京大は数名入っているが)
赤本などもなく、近年の動向の把握を怠っていたからである。
 配点比率自体は理数英に比して高くなく、理系への配慮でけっして重厚ではないが、
バリバリに正統派の記述式であり、まともな対策が必要である。
察するに「国語ができないヤツは来ないでほしい」というメッセージであろう。

 なんでも風の噂によると、京大あたりから漢文の問題をつくれる先生がやってきたのが始まりだそうで、ご存知のように京大も理系二次試験に現代文・古典を課す。
文系の二次試験にあの難度の数学を課すのだから当然のバランスであるが、なぜか古文だけで漢文はない。京大こそ漢文の伝統なら東大に負けじとあるのだから、わたしも昔からフシギだったのであるが、名大の漢文担当の先生には忸怩たる思いがあったのであろうか。

 さらなる風の噂によると、京大内でも、国語の点が高い理系の方が優秀だ、というデータがあるそうな。
出題にも採点にも手間のかかるあの記述式国語を全学部で実施し続けているのも、その労力を費やしてでも、学問のトップを担える人材を見いだしつづける必要があるからだ。
その試金石が「国語力」ということは、当然のことなのであるがいかんせん「常識」ではない。

 さて、「理系こそ国語力」という誰か(?)が力説していたが、その追い風が京都から尾張に吹いた。
かくして名大医学部の壁には漢文が立ちはだかる。〔ただし理学部は現代文だけとか。〕
・・・・もう少し深読みするとこうだ。医学部で漢文を課すのは東大だけ。理3は最難関。
するとそのボーターにある「準優秀」な人材は、古文・漢文の勉強をムダにしないためにも第二の選択肢として名大医学部を選ぶことになる・・・・・するとかつては東大理1に行ったような人材が名古屋大にやってくるわけである。人材確保戦略とみるならばこれもありである。
 実は、これには「実績」がある。というのは、私が東大を受験していた時代は、入試制度がグルグル猫の目状態で、ある年は、東大と京大が併願できたし・・・・
(その年、高校の担任が頼みもしないのに内申書を両方に書いてくれた。もちろん東大専願だったので受験せず、開けて中身をみてみた なぁv(* ̄ー ̄*) …)
ある年は東大と名古屋とが併願できたので、駿台市ヶ谷の同期には東大がだめで名大医に行った者がいた。その追跡調査データなども参考になっているかもしれない。

 つい、昔話になったが、かくして今や国立大学医学部に限ってみると、
二次試験で国語を課すのは、東大、京大、名大、そして山形大(現代文のみ)の四校である。
すでにGHS現代文の宮城先生が、名大の現代文をとりあげて解説しているが、
いずれ、『医大受験』でも名大漢文を素材として解析してみたいと思っている。
 国語力への評価、これが将来の天下取りを見据えた名大の「先見の明」であることを願いたい。
posted by Kyuzen Ichikawa at 21:21| 閑綴帳

2015年01月14日

〈20〉1割に「刺されば」良し

 新年となった。この年末年始は柄にもなく、沖縄で家族・友人と過ごしたおかげで、のんびりとして何も仕事はできながったが、心身ともに蓄積した疲労がウソのように解消した。やはり、信州と沖縄の気温20℃の差は予想以上に効くのだろう。
「柄にもなく」というのは、そもそも我が家は混雑や行列がきらいなので、こういう繁忙期に旅行などしたことがないのだが、近年、「本業」が暦通りに休む場所になったことと、中学生の息子の部活があり土日祝も家族で動けないため、こういう「画に描いたような」年末年始となった次第である。
 その勢いで、この一週間で、『医大受験』vol.14冬号の原稿を漢文を皮切りに次々に仕上げることができ、ようやくこちらに時間を割けているわけだ。

10人に1人に「刺さる」という話
 さて、表題は、『日経ビジネス』の2014.11.10の記事にあったものである。「企業研究」というシリーズものであるが、そこに文房具メーカーであるキングジムが紹介されてている。
一風変わったデジタル機器やアイデア文具を次々にヒットさせているその内情にせまるものであったがこれが実に興味深い。
 IT・OA化の進展にともなって従来の主力であった紙のファイル売れなくなり経営縮小に追い込まれつつあったときの社内改革を象徴する言葉である。
 実際、13人の役員の一人以外が「ぜったい売れない」と反対した「ポメラ」という商品が、30万台のヒットとなったことを契機に、社長が過去の成功にとらわれた発想を駆逐して、社員一人一人が主役となれる提案型の創造的な社風をつくっていく話である。その社長の言葉には真実味がある。
「売れないと思っても、10人に1人が絶賛してくれるなら作る価値がある。」
「(開発会議の長である自分が)欲しいと思う商品は正直なところ数ヶ月に1個あるかないか。他の参加者も同じだが、心に刺さる1個はそれぞれ違う。日本国民の1割に当たる1200万人がどれかを欲しいと思ってくれたら、それはもう、すごいことでしょ。」
「売れないのではと心配しながら開発すると、いつの間にか無難な改良品ばかりになります。着実なニーズをすくい取る方が、新しいモノを生み出すより簡単だからです。」
文具の大手企業であるコクヨからすれば、売り上げは10分の1程度の中堅企業だから、だからこそできるこの「改革の精神」に学ぶべきことは多い。

試算してみる
 GHS予備校も大手からすると、比べ物にならないくらいの規模であり、生徒の総人数も浪人生は30数人ほどにしかならないが、だからこそ行き方は違っていいし、そうあるべきである。
ちょっとばかり試算してみると、2014年度の大学志願者数は66万人、そのうちセンター試験の国語の受験者は50万人である。
 すると、年間に仮にその100人に1人が『漢文解析』に共鳴・熱狂したとしても5000人にもなる。万が一これがGHSに押しかけたらかえって迷惑・混乱であろう。
だから、1000人に1人で十分か?いや500人でもキャパを越える。まあ、そのうち10人に1人が実際にGHSの門を叩いてくれれば、それで『漢文解析』の一つの目的は成就するわけである。共鳴できなければ他の選択肢は沢山あるのだから、よそに行けばよいだけだ。
 村田塾長が、すべての生徒に目が届くための、教育的観点からする「30人」という定員である。その少ない枠は、できるなら、GHSのメソッドに共鳴して、感激して、道を求める若人であってほしい。
 実際、GHSに来る前に『医大受験』や『体系化学』を知っていた生徒の伸びは凄まじく、1年後には高校の進路指導の先生(「君は二年かかっても医学部はムリ」という太鼓判を押していたりする)が、仰天!腰を抜かすというエピソードには、最近慣れ飽きてきたほどである。
 ちなみに、『体系化学』の読者であった今年の生徒のN君は、『漢文解析』にもまた鋭く共鳴して授業を楽しんでくれている。彼にとってはもはや「自家薬籠中」の域に入っていて、「自分文法」を把持して漢文を読解できる境地にある。
 著者としては、そういう生徒が年に10人もいればすごいな、きっと楽しいな・・・くらいに思っている。

一般読者の方へ
 そんなコンセプトで世に出した『漢文解析』なので、すでに受験生でない・批評好きな大人がかれこれ言っても意に介さないし、そんな閑もないし、双方に益も無い。レストランの子供用のイスが小さすぎると文句いう大人はいないし、飛行機のシートが狭すぎるとクレームをつける力士もいない。そういうものだと知っているからだ。
 大人となって久しい方には、ぜひともかつての「漢文苦民」であったころの青春時代を思い出して読んで欲しいし、これからの若人に向けてその経験を発信してほしいと願うものである。

 キングジムの開発者(30代)の社員がいうには、市場調査とかはやらないそうだ。従来にない商品を市場調査から得ようとすると、かえって「欲しい人」の声がかき消されるから、と。
posted by Kyuzen Ichikawa at 12:25| 閑綴帳

2014年12月14日

〈19〉GHS予備校と『漢文解析』

 市販している以上は当然のことながら、『漢文解析』は本来の想定より広い読者層に渡っているようである。育文社やHPを通してに届くお便りは,おおむね「コロンブスの卵」として評価していただいて、こんな「私製漢文法」が少しでも誰かの役にたてばそれで十分嬉しいのであるが、中には少しずれた思い込み・勘違いとしか思えない感想も散見されるので、今回は、まえがき・あとがきには書かなかった『漢文解析』の背景や経緯について書き記しておきたい。

GHSのこと
 そもそも私が講師を務めるGHSという大学進学予備校は、西新宿にある「総数少人数制予備校」である。浪人生は総数30名そこらしかとらない。でないと、塾長の目が届かなくなるからである。かといって選抜試験で優秀な生徒ばかりとる、というようなことはしないて、「無選抜・やる気次第」で申し込み順に入塾することになる。たとえ出発点が低くても、やる気があり好人物であれば、いかようにも伸ばしてやれるからである。
 1993年開校であるから、すでに20年の歴史がある。少人数制予備校のハシリであり、当初から少人数制のメリットを活かせる教育メソッドを創造すべく実績を重ねて来た。
 ざくっといえば、この間の東大合格者なら30名、早稲田慶応はその3倍、また医学部に進学した者(合格者数ではない)は国立私立あわせて50名を越えて、半数近くは現役の医師である。「無選抜・やる気次第・申し込み順」であるから、文系もいれば、理工、薬学、歯学志望もいるわけで、その中でのこの合格者数である。
少人数での双方向的授業のノウハウと、一人一人に合わせて細かく個別指導するノウハウとが結晶して、『体系化学』や『漢文解析』が生まれたのであるし、『医大受験』誌の継続連載があるのである。

『漢文解析』の想定対象
 GHSは、「無選抜・やる気次第」で生徒が入ってくるので、自然に世相の変化を反映する。私は、開校3年目くらいから参画しているが、90年代はやはり「東大・早慶」志向の生徒がほとんどだった。少子化も顕在化しておらず、大手予備校がまだ全盛だった時代でもある。
 バブルがはじけて、2000年代になるとその潮目が変わる。それまでは少数派であった「国立医学部志望」の方が、東大志望者よりも増えてきた。上にあげた東大合格者の2/3は、GHSの前半10年の実績である。それと入れ替わるようにして、地方の国立大医学部ないしは首都圏の私立大に入学する生徒が増加していった。
 今年などは、(試験制度改革のニュースにあおられたこともあり)文系の生徒は0人というGHSはじまって以来の事態であり、全国から集う生徒達の8割は「医学部が第一志望」となってきている。ちなみに「あとがき」にちらっと登場してくる、漢文の教えを乞いに来たという生徒は、今は、信州大学医学部の6年生となっている。私の中に眠っていた「漢文」を揺り起してくれた。

 『漢文解析』の講義の対象は、そんな生徒達である。原稿を書き始めたのは2008年からであり、『体系化学』の直後からである。それまでは、物理や化学のメソッド構築がメインで、「漢文のメソッド」なぞ求める生徒はいなかったのであるが、国立医学部志望者にとってはセンター試験はまさに‘死活問題’であるから、漢文もまたおろそかにできない、そこから内部テキストとして年々歳々改訂を重ね、そのver.4.0が『漢文解析』なのである。

『漢文解析』でいう‘理系’
 だから、「理系にやさしい」とはいっても、国立医学部志望なのであるから、その理系とは偏差値でいえば60以上であるし、センター試験では8割くらいはとれる学力が出発点である。ただ、そんな学力では、医学部は‘絶望的’なのである。だから、それを9割に引き上げる野望をもって漢文でもまた確実に満点を狙うメソッドを求めるのである。
 高校もトップかその次くらいの進学校だから、伝統的な訓読は一通りは学んでいるのであるし、古文だってそこそこできる、だけれども理系だけに時間がかけられないから、「漢文と訓読の時間の壁」を突破するメソッドが必要なのである。それゆえ漢文のまったくの初学者は想定外である。
 逆にいえば、高校でやったのと同じような訓読一辺倒の授業をやっても意味がない。なぜなら理数に時間がとられる分、「読書百遍」方式はとれないからである。それではそもそも彼らが退屈する。

……だから、本書のコンセプトに共鳴される一般読者には、このような事情がおわかりになる理工系や医療系など「かつては漢文に時間がかけられなかった」方々が多いのも頷ける。

大事な一点は、和人の歴史的・知的財産である漢文に対する、「漢文離れ」「漢文食わず嫌い」を少しでも減らすことであろう。伝統的な訓読を支持し、本書の行き方に賛同できない向きの方もこの点は同じはず。
 ならば、私よりも漢文の素養のある方々には、語呂合わせとかマンガとかではなく、こんな理系受験生に自信をもってすすめられる漢文メソッドを提示してほしいのである。残念ながら、未だそういうものが受験界に存在しないからこそ、医業を生業とし、GHSで化学と物理を講義する「門外漢」の私なぞが一石を投じた次第である。
posted by Kyuzen Ichikawa at 15:59| 著者より

2014年11月24日

〈18〉『ゲゲゲの鬼太郎』のこと

先週の授業から
 センター試験1992年の出題は、漢詩の大御所・白居易の「放鷹」であった。
その中で以下のような箇所がある。
「鷹の翼の疾(ハヤ)きこと風のごとく、
 鷹の爪の鋭きこと錐(キリ)のごとし」
今回は、これに続く二句をとりあげたい、
    本為鳥所設 今為人所資
基本文法事項として、は「受け身形」であることはテキストにも説いておいた通り。
は漢文読解法則「均整の美学」から、との対句で、「本来は、元々は、以前は」という時副詞に解すればよい。が、本題はこれらではない。ここまではこのように文法的に解決するのだが、授業ではそれは当然のこととして、その一歩先に踏み込む。訓読に忠実に訳すと「羽根や爪は、元々鳥によって設けられたものだが、今は人によって利用されている」となるが、この下線部の「意訳」と「背景」である。

正解は最適訳とは限らない
 ここが設問箇所となって、現和訳を選ぶことになっているが、その「正解文」は、
「翼や爪はもともと鷹のために付けられている・・・」
となっている。微妙に丸めた訳語である。それ以外の選択肢の主語が明らかにハズレなのでこれを選ぶしかないが、そこで思考停止すれば、漢文世界への扉は開かないように思う。「鷹のために付けられている」と訳すと、ではいったい誰が付けたのか?という問題が生じる。これが西洋キリスト教的精神世界であれば、「人も鳥も神が造り賜うたもの」で済むのであるが、東洋の・漢文世界には唯一の創造神はない。だから、この点が曖昧な「正解文」はまず文化的意味として「誤訳」であるし、他動詞「設ける」の主語は「鳥」であるから文法的にも減点せざるをえまい。
 また、ある大手予備校の解答解説では「鷹のために備わっている」となっている。ここでは主語がさらに薄められ曖昧にしてある。なかなかウマいかわし方である。しかし、そこをスルーすると、本当の漢文の学びにはならない。

東洋的・思想的背景
これは中華的ないし東洋的生命進化論の問題である。
「鳥には色々な種類があるが、この多様性はいかに生まれたか?」という問いにも、哲学者、宗教家、思想家はなんらかの答えを容易せねばならないのは、古今東西共通のことがらである。この世のはじまりとか、天変地異はなぜおこるかとか、病の原因と治療とか、人の運勢とか・・・・そのような問いの1つである。
 そこに古代中華的(もちろん古代日本にも影響する)な「進化論」がそれなりにあるのである。すなわち、元々ふつうの飛ぶ以外に取り立てて能力をもたない「鳥」がいて、それが、雷に打たれるとか、何かが取り憑くとか、特殊な修行するとか、仙人にパワーを与えられる等々によって、特殊能力を身につけていった結果、鳥の多様性が生まれたのだという見方である。
 そこでようやくタイトルにある『ゲゲゲの鬼太郎』の出番となる。この息の長いアニメには、色々なパターンの妖怪が登場するが(私が子供の頃は毎日のように再放送をしていたし、その後も何度かリメイクされている)、その中に「動物が妖怪変化となったモノ」がある。一番印象にのこっているのは、「金毛九尾の狐」である。昔話でも狐や狸の変身能力はおなじみであるが、それ以上の妖術・パワーをもつに至った「スーパー狐」であり、その最強形態である。蛇やカワウソなどの妖怪もあったように思う。しかも、それらは鬼太郎と闘って敗れ、何か取り憑いたものがとれると、ごくごく普通の従順な動物の姿にもどったりする。
……ここでスーパーモンキー「孫悟空」を想起した人もいるであろう。つまり、普通のサルもいるが、さまざまな特殊能力を身につけたサルもいる……そこからは現実と空想(もちろん現代の我々からみれば、ということだが)とが入り交じっての「進化の系統樹」となるわけである。
 だから、ここは直訳どおり、「元々は、ふつうの鳥(トリ一般、プレーンな鳥)であったものが、何らかの要因によって、鋭い爪と早く飛べる羽根を獲得し、ビルトインした」と解してよいのである。

 漢文を学ぶとは、単なる訓読・句法暗記で高い得点を狙うにとどまらず、『ゲゲゲの鬼太郎』に表現されているような、我々和人に染込んでいる精神世界を顧みる契機にもなるような営みであるべきだと思うのである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 06:12| 閑綴帳

2014年11月04日

〈17〉『漢字海』のこと

実にナウい
『思練・漢文解析』の巻末に、いくつか文献を挙げておいた。本書の読者の方々は、想定以上に平均年齢が高いこともあり(⌒_⌒; ……たとえば、本書の背景に時枝誠記氏の言語過程説を見て取った方もいるほどに(いゃあ恐れ入った、スゴいもんだ!!!)知的教養レベルが高くて、むしろ私としては我が意を得たりという面もあり実に愉しい。

 その中で、漢和辞典の『漢字海』を参考文献として紹介したが、これについていささかコメントしておきたい。
端的には「画期的」である。それまでの漢和辞典は、どうにも私の「心の襞」(出典は小椋佳)に響かなかったのであるが、この辞典は新奇モノ好きの私にとっては、まさに一瞬でその価値を見切ったものである。我々(?)の時代のコトバでは「ナウい!」という代物だ。
 なんといっても革新的なのは、漢字の意味が品詞分類に基づいて記述されていることである。それを眺めていて、漢字というものが、語形を変えることなく(当然のこどだが)品詞的にスライドしていく歴史が見えて来たのである。動詞が助動詞化し、副詞が接続詞化し、形容詞が動詞や名詞に転化していく言語的時間の流れが、この辞典に対面していると自然と浮上してくるのである。
 その成果が、たとえばの多品詞性の解明であり、また、掘っても掘っても出てくる疑問語・反語の系統的整理などである。漢字というものはゴマンとあるのであるから、知識の収集のためには漢字辞書は必須なのである。だから、こんな相性の良いモノに良い時に巡りあえてラッキーであった。なんとなれば、私が受験生時代(昭和〜平成)には、この辞書はなかったのであり、東大入試の漢文の勉強は、漢和辞典なしの状態であったからである。
 なにごとも、知識がありすぎると収集がつかなくなるということも真理であり、漢文法の原型を作るには、漢和辞典なしで充分なのであった。例外や破格が目につくようになると、筋の通った文法論などできないものである。
 一定の土台の上で、漢文を講義するようになって出会った辞書だからこそ、今回のように縦横に使うことができたといえる。その意味では、理系受験生にこの辞書を使いこなすことをぜひにと要求するものではない。そのための『漢文解析』および連載である。参考文献としての推薦の辞は、お世話になった感謝をこめてのものである。

友人であっても生き方はちがう
 気が合う友であろうとも、生き方はそれなりにちがうものである。『漢字海』との価値を認め、また相性が合うとはいったが、それは他の漢和辞書に比してのものであり、文法論的に意見が一致するのは、70%くらいではないかと思う。あとがきに「私製文法」と断ってあるように、権威筋に認めてもらおうなどとは露も思っていないし、『漢字海』のよって立つ文法論(巻末にある)を一瞥しはしたが、ここに学んだことは皆無である。『漢文解析』はあくまでも自家製。これに共鳴したり、賛同したり、役立ったといってもらえればそれでよい。
 仮に、『漢字海』の文法論で事足りるなら、それを受験生に推薦すれば事足りよう。しかし、それでは叶わぬと思うからこその『漢文解析』の公開である。他に類あらば、わざわざ表に出すことはない。一部にはご存知のことと思うが、私的には、本職としてのGHSでの物化の指導と、本業とで多忙な身である。その時間を割いてまで書を物する営為には、既存物の地平を越えんとする企図があるからである。
 訓読法のもつ両面性が、現代の受験生に高いハードルを課している。それは漢文が敬遠の対象となっている一因である。それらのなかに無用のものがあれば取り払って、別の道もあるのを示すこと。それによって、本来の漢文の価値・魅力に少しでも多くの若人が気づいてもらえればそれでよいのである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 00:29| 補筆漢解

2014年10月24日

〈16〉完売御礼!!!!

育文社的好事
 本日、育文社の山田社長がGHSを訪問され、できあがったばかりの『漢文解析』増刷版を直々に届けていただいた。私は授業中であったのでほんの束の間のご挨拶だけだったのだが、「新記録です!!!!」と。
 『漢文解析』は発売から約半年。初版というものは初期的誤植訂正の可能性や在庫の問題から、この手の書籍はふつう1刷で1000部作り、売れ行きなどをみて増刷時期を決めるそうである。その初版がなぜか(?!いやいや)すでに完売となってしまったのである。私も知人二人ばかりに進呈したが、GHSにも受講者の10数人分しか受け取っていない。つまり、純粋に書店とかアマゾンとかで販売されたことになる。
 もっとも、ふつうに小説とかエッセイ本などでベストセラーとなれば、何万部単位でのカウントになるが、一般に学参というのはそうそう数がでるものではない。年間数千単位で売れればこのジャンルではスマッシュ・ヒットなのだそうだ。たしかに、学参のコーナーに行けば、一教科あたり何十種類も参考書がでているわけで、それで受験生数を割ればまあ、そんな数である。
 したがって、わずか半年で初版完売というのは想定外の育文社的新記録ということなのである。
もっとも、多田先生の英文解釈(3)は、さすがに長年お待せした読者が多いだけに、一ヶ月もたたずに初版完売で、こちらはもう別格でありかつ想定内である。

元を辿れば
 今回の『医大受験』vol.13の連載稿の冒頭に書いたのだが、2008年当時のGHSテキストとしての『漢文解析』草稿は、ウチの数学の先生がいたく気に入られて、ぜひにと出版を勧められたという経緯があったのである。
ただ、『体系化学』が出たばかりでいささか消耗感があったこともあり生返事をしていたら、サクサクと某有名学参出版社(すでに数学の学参をそこから出しておられたので)に持ち込んで、強力にプッシュしていただいたのであった。
 ・・・・で、国語の担当者からの返事といえば、内容的には画期的!!(まあ、社交辞令なんだろう)だが、商業的にはNOだというものであった。すでにいくつか漢文学参を出していて,漢文関係の販売部数がいかに少ないかという経験値から、ソロバンをはじいたわけである。んー・・・、私が受験生当時、チャレンジングな学参を次々と世に出し、先見性と斬新さとで時代を切り拓いて来たはず……!?の●●会であったものが、こんなに守りに入るとは、つくづく時の流れとはオソロしくも残酷なものだ・・・・と思ったことである。
 おかげさまで、結果的には、『医大受験』の演習篇の連載の方が、テキストより先に公開されるという妙な展開になりはしたが、それが功を奏して「基本テキスト」としては、4年有余の熟成・推敲の期間をもつことができ、草稿にはまだなかった第4章まで書き切ることができた。

一般読者へのお願い
 今回の増刷は、本文は二カ所の訂正にすぎないが、表紙からは「受験国語」の限定表記がなくなっている点が最大の変更点である。そのおかげで、新宿のメガ・ブックストアでは一般コーナーにも堂々と並ぶようになったらしい(と生徒からの報告アリ)。たしかに、「かつての受験生」読者に支えられての初版完売のようであるから、マーケティングの手法としては実に適正である。
 ただ、そういう読者の方にくれぐれもお願いしたいのは、『漢文解析』は、18-19歳の受験生に向けて書かれたものだということである。受験に役立ててもらうことが主眼であるので、受験生目線で割り切って書いたところも多々ある。専門的な、学術的な観点からするとスキップしていると思える箇所があるかもしれないが、ぜひ、本書と向かい合うときは、束の間、その年頃の自分に戻っていただいて愉しんでいただきたいと願うものである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 17:51| 閑綴帳

2014年10月04日

〈15〉訓読は‘鬼に金棒’か?!

訓読の効用
 本質的には『漢文解析』の方法は、伝統的な訓読へのScrap & Buildであるが全否定ではない。
「まえがき」に次のように記した。
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でも、入試問題において、せっかく親切につけてくれている「訓点・返り点」など廃止しろ、無視してしまえ、なとどいう過激なことはいいません。これは、とても参考になります。漢文法の力がついてきて、文法的な解析や構文をとったりできるようになると、これらはとてもいいアシストとなります。英語入試問題とちがってそこにだいたいの答えが書いてあるのですから、英文解釈よりずっと楽なのです。だから、漢文法の理解がホンモノになれば、まさに「鬼に金棒」といえます。(もちろん、金棒のほうが「訓点・返り点」です。)

 したがって、本テキストで説かれる、漢文のまったく新しい勉強法を端的に表現するならば、「返り点・送りがなに頼り切りである現状から脱して、古和人と語学力的に対等な立場に立って、(古和人の解釈力に心底からの敬意を表しつつも)自分の解釈と比較参照しながら直読・直解していく」そんな実力をつけようではないか、ということです。    

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 ずいぶん謙虚に書いたもんだと今更ながら思う。まあ、ギロンしても通じない人を相手にする閑もその気もないのでこんな感じかな、と。とにもかくにも、訓読の点やフリガナなどは、漢文法の修練という条件下においては、良きアシストとなることは少なくないので、授業ではその利用の仕方をあわせて指導している。


訓読の弊害
 ところが、センター試験の過去問の解析をしていくと、‘困った訓読’に出会うものである。「文法的にはマチガイ」であっても正しく解釈できているならよい。わかりやすい例でいえは、「ナンスレゾ」〔第3章 ⑶ 疑問副詞への疑問とその解明〕という誤訳とか、文末の数量副詞を「・・・すること〜なり」と主語+述語の形に読む〔第2章 ⑶ ‘四面楚歌’ 〕などはOKの範囲である。むしろそれは先人の営為によって幾重にも試行され定型化されてきたものである。
 しかしながら、そういう定型化がなされない文章、つまり句法・句形としてはまらない文章の訓読には、「文法的に間違いであり、かつ解釈が歪んでいる、ムリがある」ものがセンター試験の訓読に散見されるから困ったものなのである。
 その明らかな事例として、次回の『医大受験』vol.13の連載にてとりあげ、原稿として提出したところである。具体的には連載稿を参照していただきたいが、端的には、漢文の文型は、英語ほど語順がタイトではなく、目的語の先置などの語順変更が可能である。つまり、出題者に「基本文型とその語順可変性」という文法ポイントがわかっていないために、解釈が混乱しており、書き下し文を読んでも何が何かさっぱりわからない(……といってGHS生が泣きついてきたのが、漢文解析の端緒だったのだ......)にもかかわらず、そこを設問箇所にしているのである。
 しかもズルいことに、その部分の解釈のところ以外で、正解がきまるようになっている。どういう人が、どういう流儀にしたがって訓点をつけているか知る由もないが、古和人のごとく、訓読なりの実力を磨いてほしいと願うものである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 11:15| 閑綴帳

2014年09月24日

〈14〉二学期の風景

二学期冒頭
 毎年のことながら、二学期の開講の漢文の授業は人数が目減りするもの。
理系受験生としては、夏期に精一杯勉強して模試を受け、進歩を確認するとともに、
また新たな課題がみえてきて数学も、英語も、物理も化学も、
まだまだ一杯やらねばならないことがあるとわかる。
特に、難関ほどに二次試験の配点が高いから、「足切りに合わなければよい」という視点に立てば、
センター試験の漢文の50点はギュッと圧縮されるから、まあそこそこの点がとれれば、
二次試験の数学や理科を1問解いた方がよぼとに得点は稼げるという計算も成り立つ。
そうすると心にゆとりがあった1学期には親しめた漢文法も、理系科目の重圧にとって換わられる。
「・・・・ということで、理系科目に専念します・・・1学期、どうもありがとうございました」
と後ろ髪引かれつつ、若干名の生徒が挨拶に来る。
 各人が、人生の岐路ともいうべき時期に、一つの方向を選ぶのは必然である。
何かを選ぶということは、何かを選ばないということである。
ただ、その精神には漢文の種はしっかりと蒔かれたはずである。
いつしか、時間的余裕がうまれて、ふと教養として漢文にふれたくなった時に、
もどって来れる拠り所をもてただろうから、それでよい。

漢文解析・改訂箇所
 そうやって、かつて漢文も国語もそこそこにして、理系科目に専心した受験生は、
モノが見えてくる齢となると、漢文の世界にも心が引き寄せられることがあるものだ。
漢文は試験科目として学ぶより、学ぶべきことありて漢文を学ぶ方が断然よいのだ。
ただ、そのとき、過去に受験勉強として集中した時期があれば幸いだし、ハードルは低くなる。
と同時に,漢文の世界を掴みきれないまま、途中で切り捨てた思いを漸くにして埋める機会である。
そうやって、今年のGHS生たちも、ゆくゆくは漢文に再入門することだろう。
 今も昔も、漢文という試験科目は、そういう位置取りにある。

 既報のとおり、漢文解析の第1刷は、幅広い読者層(むしろ受験生以外?)に支えられて、
10月にも二刷となる。内容的な改訂は、前々回に記した一カ所で済みそうである。
が、実は、大きな改訂がある。
・・・それは、表紙カバーおよび表紙の前後面にある「受験国語」の文言が削除となるという点だ。
育文社としては、この反響を受けて、書店の一般書、ビジネス書などのコーナーにおきたいのだが、
「受験国語」の文言があると、学参コーナーにしか並べられないルールだそうである。
だから、二刷以降は、この制約から自由になって、「ディープな●●史」とか「山●日本史」などの
リバイバルコーナーにも姿を現すことになるやもしれず。
それはそれでまた、本書の本来の位置取りなのかもしれない、と思えてくる。
posted by Kyuzen Ichikawa at 15:22| 日記