2014年09月04日

〈13〉ラテン語と漢文と古文

ラテン語と漢文
 『漢文解析』の第1章では、ラテン語と漢文の共通性にふれた。
それは書き言葉であったゆえに、話し言葉と違い、文法的な揺らぎがほとんどなく、だからこそ、千年の時を越えて、本書において、文法論的に筋を通すことが可能であったわけである。
 特に漢文の文法的ベースとなるのは、科挙によって試験科目に指定された儒教の聖典であったから、それを暗唱するほどに学んだ者が官僚となり、漢文で記録する際には古典の漢文法が忠実に守られたのである。
その役を果たしたものという視点をもてば、西欧ではラテン語で綴られた聖書が代表であったし、書き言葉に限定はされないものの、アラビア語文法の模範としてコーランの文章がある。その各々の文化の射程にある人が、共通の文法的模範をもつことは、一つの言語が確定しそれを維持するにに不可欠のことであるようだ。

古文と漢文
 そうしてみると、我が「和古文」の文法論はとても難しいと感じるのである。ヤマトのコトバがまだ成熟し固まらないうちに、漢文の文化が輸入され、そこに漢訳された仏教文化がかぶさり、さらに戦国時代あたりからは儒教的漢文も重なり、その過程では、漢字仮名まじり文という独自のスタイルの日本語がゆっくり醸成されていくという重層的な構造がある。だから、和古文の文法を語るには、その変化・変遷をまずは漢文の文法の絡みにおいて説かねばならない。
 それはたとえば、『漢文解析』でも諸処に触れたが、その代表例は、(ani)が何以(kai)の表音文字だ、ということだけでなく、(nani)はその音韻変化であり、つまり、「何?」は和語ではなく元々外国語だということである。
もう一つ象徴的なのは、形容動詞の問題である。これも「漢語音そのまま」+「あり/たり」という造語であることは本書に説いたとおりである。
 現代日本語はさらに、明治以降(実は江戸末期から)、西欧語の影響を受け始めるから、現代日本語の文法を語るのは、まるで、しっかりと煮込んでとろとろになったソースの原材料を当てるくらいに難しいという自覚がなければなるまい。比較言語の目とともに、言語の過程性をみるという複眼でなければ、その試みは‘蟷螂の剣’となってしまうだろう。
まずは、そのソースの明らかな原材料としての漢文の文法をしっかりと捉えることが、和古文の文法を語るための前提と思われる。「古文が苦手だ」という高校生はほぼ100%といってもよかろうが、上で説いたように、受験科目の中でもっも構造が複雑でありながら、基礎となる文法論が整っていないのが「古文」であるから、しかたない、ありたまえのことなのだ。

 いずれ取り上げてみたいが、かの本居宣長が、江戸時代にあって、あれだけ見事なレトロな日本語を操った文章をものすことができたのは、漢文の実力が相当のものであったからではあるまいか。でなければ、かなりに煮込みが進んだ江戸時代の‘現代語’から、漢文的要素を掃き出しつつ、漢文がとけ込んだ熟成期のヤマトコトバを選り出すことはできなかったはずだからである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 22:34| 補筆漢解

2014年08月24日

〈12〉 新聞伝配 -お知らせ-

  育文社から知らせがあり、おかげさまで、四月発売の『漢文解析』初版は残部僅少にて、
この10月には、重刷すべく準備に入ったとのこと。読者からのお便りを色々といただいていて、
育文社に届いたものは、GHSにて拝見させていただいているが、本当に想定外に、
読者層が幅広く、ここで紹介した方の以降にも、さらに50-60代の方からのお便りが
見受けられる。改めて、教養としての漢文の存在感の大きさを再確認していることである。

さて、重刷となれば、初版・1刷のバグを修正するチャンスである。
車で言えばマイナーチェンジである。小さな修正ならば、おなじ原版を利用して修正した上で
印刷するから新たな費用はかからない。(それが、新しい印刷原版を起こす「改訂」との違いである)
前回、ご指摘いただいた箇所についても、この機会に1刷の読者に向けて、以下のように
訂正する予定である。
---------------------p.152 上段・9行目〜17行目------------------------
 では問います。一到はどうして「(精神を)集中
する」という意味になるのでしょうか?ここでこそ
文法力の発揮です。精神は名詞であり、は動詞で
す。「到達」「到来」「到着」という例でわかるよ
うに、(a)で出て来た=です。その基本的意味は
「ある場所に向かう」ということですが、ここは他
動詞で「〜を向かわせる」であり、は「一つ
所に」という副詞(!)ですから、一到は「1点に〜
を集中する」(=concentrate)となります。つまり、
目的語精神が先置された、第3文型の強調形です。
------------------------------------------------------------------
1刷を精読された読者の方で、修正点等を発見された方はぜひとも、
重刷に反映させるべく、本HPの「以信伝心」を通してご一報いただきたい。
posted by Kyuzen Ichikawa at 23:48| 補筆漢解

2014年08月14日

〈11〉読者より質問有り 

先週は、一足先の夏休みにて、ITとは縁遠い環境にいたため、1回分スキップしました。その間に、HPの「以心伝信」から質問が届いていたので、とりあえず、ここで要点をお伝えしておきます。
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漢文解析大変有益でした。とくに第2文型の説明はよく納得できました。
時枝誠記の零辞を思い起こしました。 御著書のp152の精神一到の解析についてですが
「精神が主語で到が動詞」ならば第1文型と思うのですが、後半で第3文型と記載され
精神にOと添え書きされています。ここがよく理解できません。
お教えいただければ幸いです。 (IM氏)
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ご指摘もっともです。これは精神が目的語でが動詞」の誤記であり、訂正が必要です。主語は、一般人称、それに続く文はその主語が継続されている形です。精神を集中する主体は人ですから、基本的にはSVOとなりますが、ここは気合いが入っているので、目的語が先置されかつ主語は省略されて、O+(S)+副+Vと並んでいます。
実は、最初に原稿を書いた2008年当時は、まだ自分の文法解析力も不充分(自分が読解するというだけでなく、世に問うものとしてはという意味ですが)であったようで、元原稿を辿ると、「精神が主語」と捉えてあり「第1文型である」となっています。そこから、数年にわたる校正を経るうち、GHSでの実践、かつ『医大受験』の連載での修練によって、解析力はヨリ精緻になっていったようで、出版直前、形式的な校正が済んだのち、改めて内容を問い、疑いの目でチェックしたときに引っかかった箇所の一つがここでした。その際に、他の箇所は修正されたものの、「精神が主語で」の箇所が「目的語」と訂正されずに残ってしまったようです。
 お詫びして訂正いたします。I・Mさん、丹念に読んでいただいて有り難く思います。
他の点については、また改めてコメントします。
posted by Kyuzen Ichikawa at 22:34| 読者から

2014年07月24日

〈10〉「約」の話

 センター試験1997出題文に、次のような一節がある。
父の赴任先から筆者が同行し帰る途中、湖で漁師から魚を買ったあと、漁師が急いで引き返してきて語る場面である。
    曰 始貨爾魚約三十銭也
 には「うる」(=sell)との読みがながついている。「貨幣と交換する」の意味に解せばよい。sellのつくる文型は、「人に〜を売る」という第4文型となる。直接話法なので、漁師自身の一人称は省略されている。
    (始  貨 爾 魚 約三十銭 也        A while ago I sold  you fish ・・・.
     (S)  時副 V4  O  O                    記

 そうすると、現和人には、約三十銭の箇所は、「およそ30銭で」という副詞に見えるものである。
しかし、この漁師は律儀にも、「先ほどいただいたお金は一銭多かった」といってわざわざ返しにくるのである。すると、「約三十銭で」という解釈では明らかに矛盾する。だいたいの金額でよいならば、キッチリ一銭を返却には来ないはずである。したがって、このは数量副詞をぼかす副詞=aboutではなく、「契約・約束」の意味の動詞でなければならない。これが読解と文法との恊働というものである。ただし、センター試験の設問は、選択肢がすべて「約す」となっているので、この点は考察する必要ないが、東大の二次試験に出したならば、誤読続出で差がつく良い設問になったかと思う。
 さて、この「約」の用例は、上の2つに加えて、要約、節約、倹約、誓約、簡約、約分などがある。それを由来から派生させて理解するというのは、テキストでもを例にしてやったことであるが、一つ一つ見慣れた漢字を捉え返していくのも、漢文の学びの必須要素である。
は、糸(いと)偏である。これは糸でくくり一つにまとめる、というのが原義である。(1)ここからスライドして、複数の人間の考えを一つにまとめると、契約、約束、誓約ということになる。また、(2)バラバラな枝をひとくくりにするとコンパクトにまとまる。つまり全体がスリムになる。そこで「要約・節約・倹約」という使い方となる。分数の分母・分子を共通因数で割れば、分数全体としてスリム・シンプルになるから「約分」ということになる。要点をまとめたものは、シンプルになるから「簡約」となるが、それは具体的な中身をカットしているから、だいたいの内容、あらすじとなる。(3)そこから品詞転用して、aboutの意味の「約〜」の用法が派生するのである。ただし、漢文では、(1),(2)の用法が主のようである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 13:19| 漢字の由来と派生

2014年07月14日

〈9〉有無難易多少の「多少」

 今回は、VS倒置六人衆のうち、多・少について補足しておこう。
というのも『漢文解析』では、第2章p.68の「矛盾」のところで、のVS倒置構文について説いたが、他の5つについては具体的に取り上げてないからである。本来ならば、第5章の演習編でとりあげたかったのであるが、あいにくこれらの用例がでてこなかった。一方、すでに授業では、第7問(演習の二題を含む)まで進んでいて、そこには「難易無多少」がよくでてくるのである。そのためのこの補筆であるが、用例と詳説については『医大受験』の連載稿のあちこちにあるのでそちらを参照していただきたい。
 多・少基本語順は、 副詞句+/+S であるが、VSが倒置されるのは、一般に主語Sが節構造をとり長くなるため、《均整の美学》の意識が働くからである。すなわち主語は、
「〜には、・・・したり、・・・であったりする輩が多い/少ない」という具合であり、これは、
関係詞を節末記号詞とした名詞節となる。したがって、標準形は、
    副詞句(通常前置詞は略)+/(C)+S=[ SV...者]
である。もちろん、形容詞多・少についてのV2動詞(be)は第2文型の常として省略される。
そこで、一例2004年センター試験出題例である。(『医大受験』vol.11-12に収載 )
           然今 天下 冒虚名 駭俗耳者 不少矣
後半の文章の冒頭であり、前半で「虎の名を騙るネズミ」の逸話を紹介しての、現代政治批判である。「天下が副詞句、冒……者が主節、??なんだ倒置になってないじゃないか?」と思いましたか?現和人にとってはこの語順はわかりやすいので、スッと読めてしまうものである。・・・だからこそ文法が大切なんだ!!ということがわからねばならない。
これは、基本語順から外れているから、強調構文、気合いが入っているんだ、ということをこの語順変更から感じ取れることが「読解」というものである。すなわち、

法則X 《強調(きあい)の美学》

  特別な状況では基本語順に優先するルールがある

したがって、「ホントに、今どきは、名前が立派なだけ(=中身のない)の者が多い!!!!!」と怒っているわけである。

posted by Kyuzen Ichikawa at 11:33| 補筆漢解

2014年07月04日

〈8〉「白文」ってどこが白い?

GHSの一学期の授業は、あと2回となった。進みは順調で、
演習テキストvol.1として用意した、センター試験過去問6題がおわってしまった。
いそぎ、vol.2を作ってもらうように頼んだところである。

さて、授業では、新しい問題に入る前の週に予習用として
「白文」を配布している。もちろん、オリジナルにこちらで打ち込んだものなので、
訓点、フリガナなどがついてないかわりに、文ごとに通し番号をつけ、
語句の区切れことに少し隙間をあけてある。漢文解析のためのヒントである。

ただし、私はこの「白文」というコトバがキライだ。訓読の記号や送りがなが
ついていないものは「漢文」そのものではないか?最低でも「原文」だろう。
訓読できるようになっている方が普通で、何もヒントがついていないものが特別で
「白文」というもの、という視点の転倒がある。
訓点という補助輪のついた自転車を「自転車」と呼び、それを外した状態を
「白自転車」というようなものといえば、伝わるだろうか。
英文には訓点などついていないから、英語の「白文」なんていわない。
いうとすれば、やはり「原文」だろう。
訓読するのが当たり前で、それ以外に漢文を読む術がなかったから
そんな変な呼び方が定着して、誰も疑問に思わなくなったのである。
何が白いか?といえば、行間が白いのであるし、漢字の周辺が白いのである。
つまり、それは漢文そのものなのであるが......。

しかも、もっとも問題なのは、その「白文」を読むときは、あたかも訓点があるかのように、
それを補って読む、つまり、どう訓読するかを丸暗記して、漢文をヒントに、
その訓読を思い出して読むのだということである。
以前にも紹介したが、NHKのタイムスクープハンターで、「漢文試験」の様子が
描かれていて、市井の塾で試験範囲の訓読を教わり、くり返し練習し、
藩(佐賀藩だったか)の試験では、その中から「白文」が渡されて、それをお手本通り
訓読できるかで合否がきまる。つまりは記憶力の試験である。
読み方は天下り式に与えられるので、そこには文法力・語学力は要求されない。
その読み方が文法的な妥当かどうかは、かつては考えることさえ許されなかった。
これらが「白文」の意味だから、「白文と言うな」というわけである。

しかし、少なくとも受験生は、前もって漢文を読むこと能わずなのであるから、
記憶力の勝負ではなく、語学的読解力の養成が必要なはずである。
だったら「白文」読むのではなく、「漢文を読む」でありたい。

posted by Kyuzen Ichikawa at 13:49| 閑綴帳

2014年06月24日

〈7〉武井咲のこと

 今日は、若手人気女優の武井咲の話をしよう。とはいっても、大ファンとして熱く語る、
なんてことはもちろん(?)しない。
さてさて、『漢文解析』の読者には年配の方も少なからずということなので
まずは確認しておくが、読み方は「タケイ サキ」ではなく、「タケイ エミ」である。

 もし、ここまでで『漢文解析』のどこにひっかけた話題かがわかった人は
相当に読解力に長けた読者である。
  それは後にふれるとして「咲く」がどうして「エミ」という読みになるのか?
という問題である。
「どうせ人名なんで当て字だろう」、とか、「昨今流行のキラキラネームの一つじゃないの?」
とかいうのは邪推というものである。
これは、漢文的にはまったく正しい、実に教養ある親がつけた(本名ならだが)
命名なのであり、格好の漢文ネタといえる。
 漢文ないし漢字の素養がある人なら実は常識なのだが、には「咲く」bloomという
意味は元々ない!!。口偏になっていることからも察せられるように、これはそもそも
「笑う」という意味の動詞なのである。それがどうした事か、古和国に入ってくるときに、
なんらかの誤解が混じったのか、「花が咲く」という言い方が通用するようになって
しまったのである。現和人は、もはや疑う事なく「咲く」を使っているから、
そういう日本漢字としてつかうしかないが、「スミレの花、ワラう〜頃」
「桜、桜、今ワラい誇り〜」・・・古漢人は首をひねるにちがいない。
ちなみに、「わらう」には【笑う、嗤う】の二通りの漢字をあてる。
の異体字であり、要するに同じものなのである。

だから、「武井ワラウ」のところをちょっとキラッと意訳して、「武井エミ」としたのは
中々センスある命名であると思う。
(でも、念のためにいいますが、ファンでもなんでもないですよ。)

日本漢字・逍遥
 これと同様の「誤解が生んだ日本漢字」をいくつか『漢文解析』で取り上げておいた。
その代表格は、ご存知である。には「若い」=youngという意味は一切ない。
これは、selectという意味の動詞であり、young=弱,少であり、とが音が
「ジャク」で共通なので、混用されたなどといわれている。
 でも、今更訂正が利かないほどに、日本漢字化してしまう。もし古漢人が、
「若大将シリーズ」というタイトルをみたら、きっと、多くの名将軍の中から
選び抜かれた、勇猛な大将軍を想起するのだろうか……。
さしづめ、「若者の集い」なんて類いは「エリート集団」の行事になってしまうんだろう。
 もう一つ、誤解的日本漢字をテキストから挙げるとすると、である。これには、
ダレ=whoという意味はない!というのも、咲撃的(笑撃のつもり)だ。
whoにあたるのは、マイナーな方のであり、の方は「名前を問う」の「問う」の
方にあたる。たしかに言偏になっているではないか。

posted by Kyuzen Ichikawa at 08:53| 漢字の由来と派生

2014年06月14日

〈6〉有無難易多少の「無」

無=不=ブ
 前回は、VS倒置の筆頭格として、についてコメントしたが、漢文的な対句的な意識からすると、がVS倒置となるのは、当然のことでなければなるまい。漢文でも英文でも、存在を表すのは対となる動詞である。be,exist ⇔ not be,not exist である。表意文字である漢文では、それぞれに独立の漢字が充てられてである。だから、存在を表すのつくる文型は当然にと同じVS倒置構文となるのが論理的思考というものだが、訓読の世界、いや語学の世界というべきか、その論理が通らないことが少なくない。
 和古文においては、存在を表す「あり」の反対語は「なし」である。その「無し」は、 ‘く・く・し・き・けれ ’ という活用をする形容詞である。人間は母国語に引きづられるものなのだろうが、いにしえ和人もまた、違和感なくを「なし」と訓読して形容詞のように扱うことが習いとなった。ここでも、翻訳先の品詞を、元の品詞と混同するという誤りをおかすことになった。
 『漢文解析』の否定語の項を読まれれば明らかなように、は、表意文字と表音文字とを区別せねばならない。表意文字としては、存在を表すが、表音文字としては無 である。峰不二子の「フ」ではなく、不細工の「ブ」なのである。 
しかし、そんな文法的区別はおかまいなしに=「無し」と訓読するものだから、余計な句形・句法が増えることになるのである。

 ちなみに、古和文では「あり」は動詞の変わり種として、ラ行変格活用などと呼ばれているが、これは四段活用とか下二段活用とかが数的優位だから、単純多数決で異端児扱いされるのである。「存在」は、動詞のもっとも抽象的な次元にあり、哲学的記述の出発点である。つまり横並びではないから、多数決で「あり」をみてはならないのである。
 「あり」の終止形がなぜ例外的に「イ段」で終わるのか?それは、「なし」と同様に、状態の継続・静的な表現である「形容詞」的な把握として対をなすからである。これが、存在についての、日本語の認識の特有さということである。言語を相互に比較するからこと視えてくるものがあるという一例であ。。
  
posted by Kyuzen Ichikawa at 21:48| 補筆漢解

2014年06月04日

〈5〉難易有無多少 

 VS倒置・六文字衆 
 「主語と述語が倒置される」文字として、‘難易有無多少’ がある。
といっても、私が見つけたわけではない。訓読法の中で伝えられている常識である。だから、伝統的訓読の、従来の参考書類にもちゃんと書いてある。(ちなみに、私は「述語」という言い方はしない)
 もとより、私は訓読反対者でも、返り点破壊者でもなく、「まえがき」にも記した通り、「そこにだいたいの答えが書いてあるのだから、漢文法を身に付ければ、鬼に金棒だ」という立ち位置である。したがって、漢文を訓読しえた古和人達の語学力には敬意を忘れてはならないのであり、この倒置六文字の発見は訓読法の貴重な果実の1つである。
 だから、漢文の教師は最低でも、この点について強調して生徒に身につけさせねばならないはずだが、GHSの授業でも、「初耳」,「いいことを聞いた」,「なぜそんな基本構文を学校ではおしえてくれないのか」などという反応ばかりである。

テキスト補筆
 このうち、もっとも頻出で基本的で、教育的意義の大きいについては『漢文解析』第2章でとりあげておいたが、「再履修課程」というコンセプトなので、なるべく簡潔に平易になっている。そこで、この文法事項については順次補筆していこうと思っている。
 有は現代中国語(以後、中文 と記す)においては、ちょうど英語のhaveの用法に重なってきている。すなわち、動詞としては所有「持つ」を表す S have O 〜のような使い方とともに、完了形のhaveにも重なり、例えばS have not  過去分詞〜に相当する没有+動詞 のような半助動詞的使い方もある。これは古の漢文の用法から歴史的に変移してきているわけである。
 和古文は、この影響を受けてか、存在を表す「あり」と対応させるが、中文では、存在を表すときはの仕事になってきて倒置もしなくなっているし、現和語でも「我思う故に、我有り」ではなく「我在り」と書くようになってきている。
 そこで、中文に馴れ親しみ日常的に使っているような人が、「中文法を知っているから漢文は大丈夫大だろう・・・」とばかりに教える立場になったりすると、まず躓くのがこのの使い方である。
 なまじっか(……といっては不遜にして失礼に聞こえてしまうかもしれないが)「文法的に説明・・・」などという漢文の参考書もあるようだが、その場合は往々にして、中文法に依拠しているため=haveとの説明になってしまうものである。それでもそれなりに意味がとれるから文法的な反省が生まれないものである。(つまりは訓読と同じことをやっている!)
 だから、「訓読だけではなく、文法的にも・・・」と銘打つ参考書が手元にあれば、の説明をチェックしてみるとよい。伝統的な訓読法での「難易有無多少は倒置」という文法的大発見が継承されていないという点では、文法的レベルとしては訓読法より後退してしまっているのである。
                                 《続く》
posted by Kyuzen Ichikawa at 12:02| 閑綴帳

2014年05月24日

〈4〉熱烈文信-1-

 さっそく、読者より感想書評をいただいた。そのものは育文社に直接届いたので、先週GHSに転送されており、週末にうけとった次第である。
 さすがに、個々人に直接に返信する暇はないので、ご本人にも快諾を得て、HPにて紹介・返信することにしたい。ただし、個人情報にかかわる部分は適宜改略してある。
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市川久善 様
前略、著書『思考訓練の場としての漢文解析』を読ませて頂きました。
素晴らしい!!漢文参考書の「革命」です。正に読みたい本でした。
更に、素晴らしい点は「考え方」・「根拠」をきちんと説明している事です。
様々な参考書を読んで一番の不満は、問題と答えしかない事です。
その間を繋ぐ考え方、根拠を説明してある本は、殆ど有りません。
不親切極まりないと腹が立ちます。
「漢文」を外国語として「文法」を道具に、頭から読み解きたいと思って来ました。
英文を読む学習中に、伊藤和夫の著書を読んで目から鱗の経験をしたからです。
……自分の受験時代の本や最近の参考書を読みましたが、すべて「訓読」です。
その中で、中野清『漢文なるほど上達法』(ライオン社)に出会いました。氏曰く、
「基本文型、文法、語法を覚えればいい。」まったく同感でした。しかし、
中野氏の本を十回以上繰り返しましたが、私が白文を読んでいくには、
何かが足りませんでした。今思えば「語法の知識」が不足していたと思います。
その後、加藤徹『漢文法ひとり学び』(白水社)が出版され、早速読んでみました。
やはり、白文を読むには、私の実力では何かが足りません。……先生の本を
インターネットで知り、実物を確認して購入、直ぐに読んだ次第です。……英語の
文法と比べながらの説明は解りやすい!! ……
 本書は受験参考書に分類される本ですが、先生には、是非、受験には関係ない
「白文を頭から読み解く為の本」(先生の文法で、古典を練習問題として読み解いて欲しい)
を書いていただきたい。一読者からの無理は承知のお願いですが、宜しくお願いします。
 末筆ながら、先生のご健康と、お仕事の益々のご発展をお祈りします。
             (神奈川県 K.H.)
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 文面からもある程度察せられると思われるが、受験生ではない。「自己紹介」よると、理学部物理学科卒で、大手企業で生産技術に関わってこられての定年後、この向学心である。
 受験生以外からのお便りをいただくことは予想はしていたが、早々に本書の核心を捉えた感想書評をいただいて、我が意を得たり!!とばかりの喜悦をおぼえている。「問題と答えとを繋ぐ考え方・根拠」をもって漢文にあたることこそが、本書の目指す思考訓練≠フ内実である。
 古和人の語学達人が、漢文に対面して、「これはこう読む」と看破した内容を訓読」として伝承してきたのであり、それは「権威」であり、なぜそう読むかとか、そういう読み方でよいのか?というギモンを持たないことが礼であり、疑問を抱くこと自体が不忠であったという伝統がある。(これに関しては、NHKの『タイムスクープハンター』に描かれたことがある)

 私自身は、漢文や中国語の学識者の世界とは、まったく関係ないところで思考しているゆえに、参考文献もなく、学術的動向への配慮などもなく、本書を書き上げた次第であり、だからこそ、類を見ない内容であり、あとがきに「私製文法」と断ってあるゆえんである。

 ちなみに、上記に登場する、中野清氏(元代ゼミ漢文講師・私との関わりは本書で紹介したとおり)も、加藤徹氏(東大文学部中国文学科卒)も、ともに中国文学の専門家である。加藤氏の『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(光文社 2006年)は、最近電子ブックで読んだところであるが、さすがに専門家の知識は‘半端なく’、常々知りたかったことや、あらたな知見(文法ではない)を得られて収穫であった。

 そもそも、これだけの歴史と伝統があって、かつ、参考書類でさえ昔から多く有る中で、あえて『思考訓練の場として』との受験界のエンブレムを背負うにあたり、漢文参考書として、二番煎じの類いではありえないことは無論いうまでもなき事である。
『思考訓練の場としての体系化学』の続く、GHSのメソッドの公開の一環としてもまた、同様である。それゆえ、KHさんの「革命」という文言は、文字通り、額面通りであり、まさに正鵠を射たものであるといえる。漢文を頭から読むという情熱のもとに、あらゆる文献を渉猟してきたからこそ一読にして本書の核心≠ノふれえたのであろう。

 開設の辞でも言及したように、本書は元々、ビジネスマン・一般大衆、漢文に興味のある大人向けに書き下ろしたのが初稿であった。KHさんのために、少しバラすと、初稿の最終章は、センター試験過去問の文法解析ではなく、『般若心経』 のさわりの漢文解析であった。お経だって漢文だ、文法的に読める!!というデモンストレーションのつもりであった。

 本HPの「練習問題」というコーナーは、ver.3のGHS内部テキストに収載してある各種問題集から拝借した文法練習問題をとりあげていこうかと思っていたが、ちょっと軌道を変更して、第二章のつづきにしようかと思いはじめた。
 ページの関係もあり、矛盾と四面楚歌の一部しかとりあげていないが、教科書にあるような有名古典漢文を、もっととりあげて教材としたいとは思っていたことである。もちろん、一般読者から、「この漢文はどう解析するか」とか「漢文解析をしたのでコメントがほしい」というようなものが送られてくれば、その都度、まずはHP上で答えたい、と思う。
posted by Kyuzen Ichikawa at 13:50| 読者から