2014年11月24日

〈18〉『ゲゲゲの鬼太郎』のこと

先週の授業から
 センター試験1992年の出題は、漢詩の大御所・白居易の「放鷹」であった。
その中で以下のような箇所がある。
「鷹の翼の疾(ハヤ)きこと風のごとく、
 鷹の爪の鋭きこと錐(キリ)のごとし」
今回は、これに続く二句をとりあげたい、
    本為鳥所設 今為人所資
基本文法事項として、は「受け身形」であることはテキストにも説いておいた通り。
は漢文読解法則「均整の美学」から、との対句で、「本来は、元々は、以前は」という時副詞に解すればよい。が、本題はこれらではない。ここまではこのように文法的に解決するのだが、授業ではそれは当然のこととして、その一歩先に踏み込む。訓読に忠実に訳すと「羽根や爪は、元々鳥によって設けられたものだが、今は人によって利用されている」となるが、この下線部の「意訳」と「背景」である。

正解は最適訳とは限らない
 ここが設問箇所となって、現和訳を選ぶことになっているが、その「正解文」は、
「翼や爪はもともと鷹のために付けられている・・・」
となっている。微妙に丸めた訳語である。それ以外の選択肢の主語が明らかにハズレなのでこれを選ぶしかないが、そこで思考停止すれば、漢文世界への扉は開かないように思う。「鷹のために付けられている」と訳すと、ではいったい誰が付けたのか?という問題が生じる。これが西洋キリスト教的精神世界であれば、「人も鳥も神が造り賜うたもの」で済むのであるが、東洋の・漢文世界には唯一の創造神はない。だから、この点が曖昧な「正解文」はまず文化的意味として「誤訳」であるし、他動詞「設ける」の主語は「鳥」であるから文法的にも減点せざるをえまい。
 また、ある大手予備校の解答解説では「鷹のために備わっている」となっている。ここでは主語がさらに薄められ曖昧にしてある。なかなかウマいかわし方である。しかし、そこをスルーすると、本当の漢文の学びにはならない。

東洋的・思想的背景
これは中華的ないし東洋的生命進化論の問題である。
「鳥には色々な種類があるが、この多様性はいかに生まれたか?」という問いにも、哲学者、宗教家、思想家はなんらかの答えを容易せねばならないのは、古今東西共通のことがらである。この世のはじまりとか、天変地異はなぜおこるかとか、病の原因と治療とか、人の運勢とか・・・・そのような問いの1つである。
 そこに古代中華的(もちろん古代日本にも影響する)な「進化論」がそれなりにあるのである。すなわち、元々ふつうの飛ぶ以外に取り立てて能力をもたない「鳥」がいて、それが、雷に打たれるとか、何かが取り憑くとか、特殊な修行するとか、仙人にパワーを与えられる等々によって、特殊能力を身につけていった結果、鳥の多様性が生まれたのだという見方である。
 そこでようやくタイトルにある『ゲゲゲの鬼太郎』の出番となる。この息の長いアニメには、色々なパターンの妖怪が登場するが(私が子供の頃は毎日のように再放送をしていたし、その後も何度かリメイクされている)、その中に「動物が妖怪変化となったモノ」がある。一番印象にのこっているのは、「金毛九尾の狐」である。昔話でも狐や狸の変身能力はおなじみであるが、それ以上の妖術・パワーをもつに至った「スーパー狐」であり、その最強形態である。蛇やカワウソなどの妖怪もあったように思う。しかも、それらは鬼太郎と闘って敗れ、何か取り憑いたものがとれると、ごくごく普通の従順な動物の姿にもどったりする。
……ここでスーパーモンキー「孫悟空」を想起した人もいるであろう。つまり、普通のサルもいるが、さまざまな特殊能力を身につけたサルもいる……そこからは現実と空想(もちろん現代の我々からみれば、ということだが)とが入り交じっての「進化の系統樹」となるわけである。
 だから、ここは直訳どおり、「元々は、ふつうの鳥(トリ一般、プレーンな鳥)であったものが、何らかの要因によって、鋭い爪と早く飛べる羽根を獲得し、ビルトインした」と解してよいのである。

 漢文を学ぶとは、単なる訓読・句法暗記で高い得点を狙うにとどまらず、『ゲゲゲの鬼太郎』に表現されているような、我々和人に染込んでいる精神世界を顧みる契機にもなるような営みであるべきだと思うのである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 06:12| 閑綴帳

2014年11月04日

〈17〉『漢字海』のこと

実にナウい
『思練・漢文解析』の巻末に、いくつか文献を挙げておいた。本書の読者の方々は、想定以上に平均年齢が高いこともあり(⌒_⌒; ……たとえば、本書の背景に時枝誠記氏の言語過程説を見て取った方もいるほどに(いゃあ恐れ入った、スゴいもんだ!!!)知的教養レベルが高くて、むしろ私としては我が意を得たりという面もあり実に愉しい。

 その中で、漢和辞典の『漢字海』を参考文献として紹介したが、これについていささかコメントしておきたい。
端的には「画期的」である。それまでの漢和辞典は、どうにも私の「心の襞」(出典は小椋佳)に響かなかったのであるが、この辞典は新奇モノ好きの私にとっては、まさに一瞬でその価値を見切ったものである。我々(?)の時代のコトバでは「ナウい!」という代物だ。
 なんといっても革新的なのは、漢字の意味が品詞分類に基づいて記述されていることである。それを眺めていて、漢字というものが、語形を変えることなく(当然のこどだが)品詞的にスライドしていく歴史が見えて来たのである。動詞が助動詞化し、副詞が接続詞化し、形容詞が動詞や名詞に転化していく言語的時間の流れが、この辞典に対面していると自然と浮上してくるのである。
 その成果が、たとえばの多品詞性の解明であり、また、掘っても掘っても出てくる疑問語・反語の系統的整理などである。漢字というものはゴマンとあるのであるから、知識の収集のためには漢字辞書は必須なのである。だから、こんな相性の良いモノに良い時に巡りあえてラッキーであった。なんとなれば、私が受験生時代(昭和〜平成)には、この辞書はなかったのであり、東大入試の漢文の勉強は、漢和辞典なしの状態であったからである。
 なにごとも、知識がありすぎると収集がつかなくなるということも真理であり、漢文法の原型を作るには、漢和辞典なしで充分なのであった。例外や破格が目につくようになると、筋の通った文法論などできないものである。
 一定の土台の上で、漢文を講義するようになって出会った辞書だからこそ、今回のように縦横に使うことができたといえる。その意味では、理系受験生にこの辞書を使いこなすことをぜひにと要求するものではない。そのための『漢文解析』および連載である。参考文献としての推薦の辞は、お世話になった感謝をこめてのものである。

友人であっても生き方はちがう
 気が合う友であろうとも、生き方はそれなりにちがうものである。『漢字海』との価値を認め、また相性が合うとはいったが、それは他の漢和辞書に比してのものであり、文法論的に意見が一致するのは、70%くらいではないかと思う。あとがきに「私製文法」と断ってあるように、権威筋に認めてもらおうなどとは露も思っていないし、『漢字海』のよって立つ文法論(巻末にある)を一瞥しはしたが、ここに学んだことは皆無である。『漢文解析』はあくまでも自家製。これに共鳴したり、賛同したり、役立ったといってもらえればそれでよい。
 仮に、『漢字海』の文法論で事足りるなら、それを受験生に推薦すれば事足りよう。しかし、それでは叶わぬと思うからこその『漢文解析』の公開である。他に類あらば、わざわざ表に出すことはない。一部にはご存知のことと思うが、私的には、本職としてのGHSでの物化の指導と、本業とで多忙な身である。その時間を割いてまで書を物する営為には、既存物の地平を越えんとする企図があるからである。
 訓読法のもつ両面性が、現代の受験生に高いハードルを課している。それは漢文が敬遠の対象となっている一因である。それらのなかに無用のものがあれば取り払って、別の道もあるのを示すこと。それによって、本来の漢文の価値・魅力に少しでも多くの若人が気づいてもらえればそれでよいのである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 00:29| 補筆漢解

2014年10月24日

〈16〉完売御礼!!!!

育文社的好事
 本日、育文社の山田社長がGHSを訪問され、できあがったばかりの『漢文解析』増刷版を直々に届けていただいた。私は授業中であったのでほんの束の間のご挨拶だけだったのだが、「新記録です!!!!」と。
 『漢文解析』は発売から約半年。初版というものは初期的誤植訂正の可能性や在庫の問題から、この手の書籍はふつう1刷で1000部作り、売れ行きなどをみて増刷時期を決めるそうである。その初版がなぜか(?!いやいや)すでに完売となってしまったのである。私も知人二人ばかりに進呈したが、GHSにも受講者の10数人分しか受け取っていない。つまり、純粋に書店とかアマゾンとかで販売されたことになる。
 もっとも、ふつうに小説とかエッセイ本などでベストセラーとなれば、何万部単位でのカウントになるが、一般に学参というのはそうそう数がでるものではない。年間数千単位で売れればこのジャンルではスマッシュ・ヒットなのだそうだ。たしかに、学参のコーナーに行けば、一教科あたり何十種類も参考書がでているわけで、それで受験生数を割ればまあ、そんな数である。
 したがって、わずか半年で初版完売というのは想定外の育文社的新記録ということなのである。
もっとも、多田先生の英文解釈(3)は、さすがに長年お待せした読者が多いだけに、一ヶ月もたたずに初版完売で、こちらはもう別格でありかつ想定内である。

元を辿れば
 今回の『医大受験』vol.13の連載稿の冒頭に書いたのだが、2008年当時のGHSテキストとしての『漢文解析』草稿は、ウチの数学の先生がいたく気に入られて、ぜひにと出版を勧められたという経緯があったのである。
ただ、『体系化学』が出たばかりでいささか消耗感があったこともあり生返事をしていたら、サクサクと某有名学参出版社(すでに数学の学参をそこから出しておられたので)に持ち込んで、強力にプッシュしていただいたのであった。
 ・・・・で、国語の担当者からの返事といえば、内容的には画期的!!(まあ、社交辞令なんだろう)だが、商業的にはNOだというものであった。すでにいくつか漢文学参を出していて,漢文関係の販売部数がいかに少ないかという経験値から、ソロバンをはじいたわけである。んー・・・、私が受験生当時、チャレンジングな学参を次々と世に出し、先見性と斬新さとで時代を切り拓いて来たはず……!?の●●会であったものが、こんなに守りに入るとは、つくづく時の流れとはオソロしくも残酷なものだ・・・・と思ったことである。
 おかげさまで、結果的には、『医大受験』の演習篇の連載の方が、テキストより先に公開されるという妙な展開になりはしたが、それが功を奏して「基本テキスト」としては、4年有余の熟成・推敲の期間をもつことができ、草稿にはまだなかった第4章まで書き切ることができた。

一般読者へのお願い
 今回の増刷は、本文は二カ所の訂正にすぎないが、表紙からは「受験国語」の限定表記がなくなっている点が最大の変更点である。そのおかげで、新宿のメガ・ブックストアでは一般コーナーにも堂々と並ぶようになったらしい(と生徒からの報告アリ)。たしかに、「かつての受験生」読者に支えられての初版完売のようであるから、マーケティングの手法としては実に適正である。
 ただ、そういう読者の方にくれぐれもお願いしたいのは、『漢文解析』は、18-19歳の受験生に向けて書かれたものだということである。受験に役立ててもらうことが主眼であるので、受験生目線で割り切って書いたところも多々ある。専門的な、学術的な観点からするとスキップしていると思える箇所があるかもしれないが、ぜひ、本書と向かい合うときは、束の間、その年頃の自分に戻っていただいて愉しんでいただきたいと願うものである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 17:51| 閑綴帳

2014年10月04日

〈15〉訓読は‘鬼に金棒’か?!

訓読の効用
 本質的には『漢文解析』の方法は、伝統的な訓読へのScrap & Buildであるが全否定ではない。
「まえがき」に次のように記した。
  --------------------------------------------------------------------------------
でも、入試問題において、せっかく親切につけてくれている「訓点・返り点」など廃止しろ、無視してしまえ、なとどいう過激なことはいいません。これは、とても参考になります。漢文法の力がついてきて、文法的な解析や構文をとったりできるようになると、これらはとてもいいアシストとなります。英語入試問題とちがってそこにだいたいの答えが書いてあるのですから、英文解釈よりずっと楽なのです。だから、漢文法の理解がホンモノになれば、まさに「鬼に金棒」といえます。(もちろん、金棒のほうが「訓点・返り点」です。)

 したがって、本テキストで説かれる、漢文のまったく新しい勉強法を端的に表現するならば、「返り点・送りがなに頼り切りである現状から脱して、古和人と語学力的に対等な立場に立って、(古和人の解釈力に心底からの敬意を表しつつも)自分の解釈と比較参照しながら直読・直解していく」そんな実力をつけようではないか、ということです。    

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 ずいぶん謙虚に書いたもんだと今更ながら思う。まあ、ギロンしても通じない人を相手にする閑もその気もないのでこんな感じかな、と。とにもかくにも、訓読の点やフリガナなどは、漢文法の修練という条件下においては、良きアシストとなることは少なくないので、授業ではその利用の仕方をあわせて指導している。


訓読の弊害
 ところが、センター試験の過去問の解析をしていくと、‘困った訓読’に出会うものである。「文法的にはマチガイ」であっても正しく解釈できているならよい。わかりやすい例でいえは、「ナンスレゾ」〔第3章 ⑶ 疑問副詞への疑問とその解明〕という誤訳とか、文末の数量副詞を「・・・すること〜なり」と主語+述語の形に読む〔第2章 ⑶ ‘四面楚歌’ 〕などはOKの範囲である。むしろそれは先人の営為によって幾重にも試行され定型化されてきたものである。
 しかしながら、そういう定型化がなされない文章、つまり句法・句形としてはまらない文章の訓読には、「文法的に間違いであり、かつ解釈が歪んでいる、ムリがある」ものがセンター試験の訓読に散見されるから困ったものなのである。
 その明らかな事例として、次回の『医大受験』vol.13の連載にてとりあげ、原稿として提出したところである。具体的には連載稿を参照していただきたいが、端的には、漢文の文型は、英語ほど語順がタイトではなく、目的語の先置などの語順変更が可能である。つまり、出題者に「基本文型とその語順可変性」という文法ポイントがわかっていないために、解釈が混乱しており、書き下し文を読んでも何が何かさっぱりわからない(……といってGHS生が泣きついてきたのが、漢文解析の端緒だったのだ......)にもかかわらず、そこを設問箇所にしているのである。
 しかもズルいことに、その部分の解釈のところ以外で、正解がきまるようになっている。どういう人が、どういう流儀にしたがって訓点をつけているか知る由もないが、古和人のごとく、訓読なりの実力を磨いてほしいと願うものである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 11:15| 閑綴帳

2014年09月24日

〈14〉二学期の風景

二学期冒頭
 毎年のことながら、二学期の開講の漢文の授業は人数が目減りするもの。
理系受験生としては、夏期に精一杯勉強して模試を受け、進歩を確認するとともに、
また新たな課題がみえてきて数学も、英語も、物理も化学も、
まだまだ一杯やらねばならないことがあるとわかる。
特に、難関ほどに二次試験の配点が高いから、「足切りに合わなければよい」という視点に立てば、
センター試験の漢文の50点はギュッと圧縮されるから、まあそこそこの点がとれれば、
二次試験の数学や理科を1問解いた方がよぼとに得点は稼げるという計算も成り立つ。
そうすると心にゆとりがあった1学期には親しめた漢文法も、理系科目の重圧にとって換わられる。
「・・・・ということで、理系科目に専念します・・・1学期、どうもありがとうございました」
と後ろ髪引かれつつ、若干名の生徒が挨拶に来る。
 各人が、人生の岐路ともいうべき時期に、一つの方向を選ぶのは必然である。
何かを選ぶということは、何かを選ばないということである。
ただ、その精神には漢文の種はしっかりと蒔かれたはずである。
いつしか、時間的余裕がうまれて、ふと教養として漢文にふれたくなった時に、
もどって来れる拠り所をもてただろうから、それでよい。

漢文解析・改訂箇所
 そうやって、かつて漢文も国語もそこそこにして、理系科目に専心した受験生は、
モノが見えてくる齢となると、漢文の世界にも心が引き寄せられることがあるものだ。
漢文は試験科目として学ぶより、学ぶべきことありて漢文を学ぶ方が断然よいのだ。
ただ、そのとき、過去に受験勉強として集中した時期があれば幸いだし、ハードルは低くなる。
と同時に,漢文の世界を掴みきれないまま、途中で切り捨てた思いを漸くにして埋める機会である。
そうやって、今年のGHS生たちも、ゆくゆくは漢文に再入門することだろう。
 今も昔も、漢文という試験科目は、そういう位置取りにある。

 既報のとおり、漢文解析の第1刷は、幅広い読者層(むしろ受験生以外?)に支えられて、
10月にも二刷となる。内容的な改訂は、前々回に記した一カ所で済みそうである。
が、実は、大きな改訂がある。
・・・それは、表紙カバーおよび表紙の前後面にある「受験国語」の文言が削除となるという点だ。
育文社としては、この反響を受けて、書店の一般書、ビジネス書などのコーナーにおきたいのだが、
「受験国語」の文言があると、学参コーナーにしか並べられないルールだそうである。
だから、二刷以降は、この制約から自由になって、「ディープな●●史」とか「山●日本史」などの
リバイバルコーナーにも姿を現すことになるやもしれず。
それはそれでまた、本書の本来の位置取りなのかもしれない、と思えてくる。
posted by Kyuzen Ichikawa at 15:22| 日記

2014年09月04日

〈13〉ラテン語と漢文と古文

ラテン語と漢文
 『漢文解析』の第1章では、ラテン語と漢文の共通性にふれた。
それは書き言葉であったゆえに、話し言葉と違い、文法的な揺らぎがほとんどなく、だからこそ、千年の時を越えて、本書において、文法論的に筋を通すことが可能であったわけである。
 特に漢文の文法的ベースとなるのは、科挙によって試験科目に指定された儒教の聖典であったから、それを暗唱するほどに学んだ者が官僚となり、漢文で記録する際には古典の漢文法が忠実に守られたのである。
その役を果たしたものという視点をもてば、西欧ではラテン語で綴られた聖書が代表であったし、書き言葉に限定はされないものの、アラビア語文法の模範としてコーランの文章がある。その各々の文化の射程にある人が、共通の文法的模範をもつことは、一つの言語が確定しそれを維持するにに不可欠のことであるようだ。

古文と漢文
 そうしてみると、我が「和古文」の文法論はとても難しいと感じるのである。ヤマトのコトバがまだ成熟し固まらないうちに、漢文の文化が輸入され、そこに漢訳された仏教文化がかぶさり、さらに戦国時代あたりからは儒教的漢文も重なり、その過程では、漢字仮名まじり文という独自のスタイルの日本語がゆっくり醸成されていくという重層的な構造がある。だから、和古文の文法を語るには、その変化・変遷をまずは漢文の文法の絡みにおいて説かねばならない。
 それはたとえば、『漢文解析』でも諸処に触れたが、その代表例は、(ani)が何以(kai)の表音文字だ、ということだけでなく、(nani)はその音韻変化であり、つまり、「何?」は和語ではなく元々外国語だということである。
もう一つ象徴的なのは、形容動詞の問題である。これも「漢語音そのまま」+「あり/たり」という造語であることは本書に説いたとおりである。
 現代日本語はさらに、明治以降(実は江戸末期から)、西欧語の影響を受け始めるから、現代日本語の文法を語るのは、まるで、しっかりと煮込んでとろとろになったソースの原材料を当てるくらいに難しいという自覚がなければなるまい。比較言語の目とともに、言語の過程性をみるという複眼でなければ、その試みは‘蟷螂の剣’となってしまうだろう。
まずは、そのソースの明らかな原材料としての漢文の文法をしっかりと捉えることが、和古文の文法を語るための前提と思われる。「古文が苦手だ」という高校生はほぼ100%といってもよかろうが、上で説いたように、受験科目の中でもっも構造が複雑でありながら、基礎となる文法論が整っていないのが「古文」であるから、しかたない、ありたまえのことなのだ。

 いずれ取り上げてみたいが、かの本居宣長が、江戸時代にあって、あれだけ見事なレトロな日本語を操った文章をものすことができたのは、漢文の実力が相当のものであったからではあるまいか。でなければ、かなりに煮込みが進んだ江戸時代の‘現代語’から、漢文的要素を掃き出しつつ、漢文がとけ込んだ熟成期のヤマトコトバを選り出すことはできなかったはずだからである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 22:34| 補筆漢解

2014年08月24日

〈12〉 新聞伝配 -お知らせ-

  育文社から知らせがあり、おかげさまで、四月発売の『漢文解析』初版は残部僅少にて、
この10月には、重刷すべく準備に入ったとのこと。読者からのお便りを色々といただいていて、
育文社に届いたものは、GHSにて拝見させていただいているが、本当に想定外に、
読者層が幅広く、ここで紹介した方の以降にも、さらに50-60代の方からのお便りが
見受けられる。改めて、教養としての漢文の存在感の大きさを再確認していることである。

さて、重刷となれば、初版・1刷のバグを修正するチャンスである。
車で言えばマイナーチェンジである。小さな修正ならば、おなじ原版を利用して修正した上で
印刷するから新たな費用はかからない。(それが、新しい印刷原版を起こす「改訂」との違いである)
前回、ご指摘いただいた箇所についても、この機会に1刷の読者に向けて、以下のように
訂正する予定である。
---------------------p.152 上段・9行目〜17行目------------------------
 では問います。一到はどうして「(精神を)集中
する」という意味になるのでしょうか?ここでこそ
文法力の発揮です。精神は名詞であり、は動詞で
す。「到達」「到来」「到着」という例でわかるよ
うに、(a)で出て来た=です。その基本的意味は
「ある場所に向かう」ということですが、ここは他
動詞で「〜を向かわせる」であり、は「一つ
所に」という副詞(!)ですから、一到は「1点に〜
を集中する」(=concentrate)となります。つまり、
目的語精神が先置された、第3文型の強調形です。
------------------------------------------------------------------
1刷を精読された読者の方で、修正点等を発見された方はぜひとも、
重刷に反映させるべく、本HPの「以信伝心」を通してご一報いただきたい。
posted by Kyuzen Ichikawa at 23:48| 補筆漢解

2014年08月14日

〈11〉読者より質問有り 

先週は、一足先の夏休みにて、ITとは縁遠い環境にいたため、1回分スキップしました。その間に、HPの「以心伝信」から質問が届いていたので、とりあえず、ここで要点をお伝えしておきます。
----------------------------------------------------------------------------
漢文解析大変有益でした。とくに第2文型の説明はよく納得できました。
時枝誠記の零辞を思い起こしました。 御著書のp152の精神一到の解析についてですが
「精神が主語で到が動詞」ならば第1文型と思うのですが、後半で第3文型と記載され
精神にOと添え書きされています。ここがよく理解できません。
お教えいただければ幸いです。 (IM氏)
------------------------------------------------------------------------------
ご指摘もっともです。これは精神が目的語でが動詞」の誤記であり、訂正が必要です。主語は、一般人称、それに続く文はその主語が継続されている形です。精神を集中する主体は人ですから、基本的にはSVOとなりますが、ここは気合いが入っているので、目的語が先置されかつ主語は省略されて、O+(S)+副+Vと並んでいます。
実は、最初に原稿を書いた2008年当時は、まだ自分の文法解析力も不充分(自分が読解するというだけでなく、世に問うものとしてはという意味ですが)であったようで、元原稿を辿ると、「精神が主語」と捉えてあり「第1文型である」となっています。そこから、数年にわたる校正を経るうち、GHSでの実践、かつ『医大受験』の連載での修練によって、解析力はヨリ精緻になっていったようで、出版直前、形式的な校正が済んだのち、改めて内容を問い、疑いの目でチェックしたときに引っかかった箇所の一つがここでした。その際に、他の箇所は修正されたものの、「精神が主語で」の箇所が「目的語」と訂正されずに残ってしまったようです。
 お詫びして訂正いたします。I・Mさん、丹念に読んでいただいて有り難く思います。
他の点については、また改めてコメントします。
posted by Kyuzen Ichikawa at 22:34| 読者から

2014年07月24日

〈10〉「約」の話

 センター試験1997出題文に、次のような一節がある。
父の赴任先から筆者が同行し帰る途中、湖で漁師から魚を買ったあと、漁師が急いで引き返してきて語る場面である。
    曰 始貨爾魚約三十銭也
 には「うる」(=sell)との読みがながついている。「貨幣と交換する」の意味に解せばよい。sellのつくる文型は、「人に〜を売る」という第4文型となる。直接話法なので、漁師自身の一人称は省略されている。
    (始  貨 爾 魚 約三十銭 也        A while ago I sold  you fish ・・・.
     (S)  時副 V4  O  O                    記

 そうすると、現和人には、約三十銭の箇所は、「およそ30銭で」という副詞に見えるものである。
しかし、この漁師は律儀にも、「先ほどいただいたお金は一銭多かった」といってわざわざ返しにくるのである。すると、「約三十銭で」という解釈では明らかに矛盾する。だいたいの金額でよいならば、キッチリ一銭を返却には来ないはずである。したがって、このは数量副詞をぼかす副詞=aboutではなく、「契約・約束」の意味の動詞でなければならない。これが読解と文法との恊働というものである。ただし、センター試験の設問は、選択肢がすべて「約す」となっているので、この点は考察する必要ないが、東大の二次試験に出したならば、誤読続出で差がつく良い設問になったかと思う。
 さて、この「約」の用例は、上の2つに加えて、要約、節約、倹約、誓約、簡約、約分などがある。それを由来から派生させて理解するというのは、テキストでもを例にしてやったことであるが、一つ一つ見慣れた漢字を捉え返していくのも、漢文の学びの必須要素である。
は、糸(いと)偏である。これは糸でくくり一つにまとめる、というのが原義である。(1)ここからスライドして、複数の人間の考えを一つにまとめると、契約、約束、誓約ということになる。また、(2)バラバラな枝をひとくくりにするとコンパクトにまとまる。つまり全体がスリムになる。そこで「要約・節約・倹約」という使い方となる。分数の分母・分子を共通因数で割れば、分数全体としてスリム・シンプルになるから「約分」ということになる。要点をまとめたものは、シンプルになるから「簡約」となるが、それは具体的な中身をカットしているから、だいたいの内容、あらすじとなる。(3)そこから品詞転用して、aboutの意味の「約〜」の用法が派生するのである。ただし、漢文では、(1),(2)の用法が主のようである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 13:19| 漢字の由来と派生

2014年07月14日

〈9〉有無難易多少の「多少」

 今回は、VS倒置六人衆のうち、多・少について補足しておこう。
というのも『漢文解析』では、第2章p.68の「矛盾」のところで、のVS倒置構文について説いたが、他の5つについては具体的に取り上げてないからである。本来ならば、第5章の演習編でとりあげたかったのであるが、あいにくこれらの用例がでてこなかった。一方、すでに授業では、第7問(演習の二題を含む)まで進んでいて、そこには「難易無多少」がよくでてくるのである。そのためのこの補筆であるが、用例と詳説については『医大受験』の連載稿のあちこちにあるのでそちらを参照していただきたい。
 多・少基本語順は、 副詞句+/+S であるが、VSが倒置されるのは、一般に主語Sが節構造をとり長くなるため、《均整の美学》の意識が働くからである。すなわち主語は、
「〜には、・・・したり、・・・であったりする輩が多い/少ない」という具合であり、これは、
関係詞を節末記号詞とした名詞節となる。したがって、標準形は、
    副詞句(通常前置詞は略)+/(C)+S=[ SV...者]
である。もちろん、形容詞多・少についてのV2動詞(be)は第2文型の常として省略される。
そこで、一例2004年センター試験出題例である。(『医大受験』vol.11-12に収載 )
           然今 天下 冒虚名 駭俗耳者 不少矣
後半の文章の冒頭であり、前半で「虎の名を騙るネズミ」の逸話を紹介しての、現代政治批判である。「天下が副詞句、冒……者が主節、??なんだ倒置になってないじゃないか?」と思いましたか?現和人にとってはこの語順はわかりやすいので、スッと読めてしまうものである。・・・だからこそ文法が大切なんだ!!ということがわからねばならない。
これは、基本語順から外れているから、強調構文、気合いが入っているんだ、ということをこの語順変更から感じ取れることが「読解」というものである。すなわち、

法則X 《強調(きあい)の美学》

  特別な状況では基本語順に優先するルールがある

したがって、「ホントに、今どきは、名前が立派なだけ(=中身のない)の者が多い!!!!!」と怒っているわけである。

posted by Kyuzen Ichikawa at 11:33| 補筆漢解