2014年06月24日

〈7〉武井咲のこと

 今日は、若手人気女優の武井咲の話をしよう。とはいっても、大ファンとして熱く語る、
なんてことはもちろん(?)しない。
さてさて、『漢文解析』の読者には年配の方も少なからずということなので
まずは確認しておくが、読み方は「タケイ サキ」ではなく、「タケイ エミ」である。

 もし、ここまでで『漢文解析』のどこにひっかけた話題かがわかった人は
相当に読解力に長けた読者である。
  それは後にふれるとして「咲く」がどうして「エミ」という読みになるのか?
という問題である。
「どうせ人名なんで当て字だろう」、とか、「昨今流行のキラキラネームの一つじゃないの?」
とかいうのは邪推というものである。
これは、漢文的にはまったく正しい、実に教養ある親がつけた(本名ならだが)
命名なのであり、格好の漢文ネタといえる。
 漢文ないし漢字の素養がある人なら実は常識なのだが、には「咲く」bloomという
意味は元々ない!!。口偏になっていることからも察せられるように、これはそもそも
「笑う」という意味の動詞なのである。それがどうした事か、古和国に入ってくるときに、
なんらかの誤解が混じったのか、「花が咲く」という言い方が通用するようになって
しまったのである。現和人は、もはや疑う事なく「咲く」を使っているから、
そういう日本漢字としてつかうしかないが、「スミレの花、ワラう〜頃」
「桜、桜、今ワラい誇り〜」・・・古漢人は首をひねるにちがいない。
ちなみに、「わらう」には【笑う、嗤う】の二通りの漢字をあてる。
の異体字であり、要するに同じものなのである。

だから、「武井ワラウ」のところをちょっとキラッと意訳して、「武井エミ」としたのは
中々センスある命名であると思う。
(でも、念のためにいいますが、ファンでもなんでもないですよ。)

日本漢字・逍遥
 これと同様の「誤解が生んだ日本漢字」をいくつか『漢文解析』で取り上げておいた。
その代表格は、ご存知である。には「若い」=youngという意味は一切ない。
これは、selectという意味の動詞であり、young=弱,少であり、とが音が
「ジャク」で共通なので、混用されたなどといわれている。
 でも、今更訂正が利かないほどに、日本漢字化してしまう。もし古漢人が、
「若大将シリーズ」というタイトルをみたら、きっと、多くの名将軍の中から
選び抜かれた、勇猛な大将軍を想起するのだろうか……。
さしづめ、「若者の集い」なんて類いは「エリート集団」の行事になってしまうんだろう。
 もう一つ、誤解的日本漢字をテキストから挙げるとすると、である。これには、
ダレ=whoという意味はない!というのも、咲撃的(笑撃のつもり)だ。
whoにあたるのは、マイナーな方のであり、の方は「名前を問う」の「問う」の
方にあたる。たしかに言偏になっているではないか。

posted by Kyuzen Ichikawa at 08:53| 漢字の由来と派生

2014年06月14日

〈6〉有無難易多少の「無」

無=不=ブ
 前回は、VS倒置の筆頭格として、についてコメントしたが、漢文的な対句的な意識からすると、がVS倒置となるのは、当然のことでなければなるまい。漢文でも英文でも、存在を表すのは対となる動詞である。be,exist ⇔ not be,not exist である。表意文字である漢文では、それぞれに独立の漢字が充てられてである。だから、存在を表すのつくる文型は当然にと同じVS倒置構文となるのが論理的思考というものだが、訓読の世界、いや語学の世界というべきか、その論理が通らないことが少なくない。
 和古文においては、存在を表す「あり」の反対語は「なし」である。その「無し」は、 ‘く・く・し・き・けれ ’ という活用をする形容詞である。人間は母国語に引きづられるものなのだろうが、いにしえ和人もまた、違和感なくを「なし」と訓読して形容詞のように扱うことが習いとなった。ここでも、翻訳先の品詞を、元の品詞と混同するという誤りをおかすことになった。
 『漢文解析』の否定語の項を読まれれば明らかなように、は、表意文字と表音文字とを区別せねばならない。表意文字としては、存在を表すが、表音文字としては無 である。峰不二子の「フ」ではなく、不細工の「ブ」なのである。 
しかし、そんな文法的区別はおかまいなしに=「無し」と訓読するものだから、余計な句形・句法が増えることになるのである。

 ちなみに、古和文では「あり」は動詞の変わり種として、ラ行変格活用などと呼ばれているが、これは四段活用とか下二段活用とかが数的優位だから、単純多数決で異端児扱いされるのである。「存在」は、動詞のもっとも抽象的な次元にあり、哲学的記述の出発点である。つまり横並びではないから、多数決で「あり」をみてはならないのである。
 「あり」の終止形がなぜ例外的に「イ段」で終わるのか?それは、「なし」と同様に、状態の継続・静的な表現である「形容詞」的な把握として対をなすからである。これが、存在についての、日本語の認識の特有さということである。言語を相互に比較するからこと視えてくるものがあるという一例であ。。
  
posted by Kyuzen Ichikawa at 21:48| 補筆漢解

2014年06月04日

〈5〉難易有無多少 

 VS倒置・六文字衆 
 「主語と述語が倒置される」文字として、‘難易有無多少’ がある。
といっても、私が見つけたわけではない。訓読法の中で伝えられている常識である。だから、伝統的訓読の、従来の参考書類にもちゃんと書いてある。(ちなみに、私は「述語」という言い方はしない)
 もとより、私は訓読反対者でも、返り点破壊者でもなく、「まえがき」にも記した通り、「そこにだいたいの答えが書いてあるのだから、漢文法を身に付ければ、鬼に金棒だ」という立ち位置である。したがって、漢文を訓読しえた古和人達の語学力には敬意を忘れてはならないのであり、この倒置六文字の発見は訓読法の貴重な果実の1つである。
 だから、漢文の教師は最低でも、この点について強調して生徒に身につけさせねばならないはずだが、GHSの授業でも、「初耳」,「いいことを聞いた」,「なぜそんな基本構文を学校ではおしえてくれないのか」などという反応ばかりである。

テキスト補筆
 このうち、もっとも頻出で基本的で、教育的意義の大きいについては『漢文解析』第2章でとりあげておいたが、「再履修課程」というコンセプトなので、なるべく簡潔に平易になっている。そこで、この文法事項については順次補筆していこうと思っている。
 有は現代中国語(以後、中文 と記す)においては、ちょうど英語のhaveの用法に重なってきている。すなわち、動詞としては所有「持つ」を表す S have O 〜のような使い方とともに、完了形のhaveにも重なり、例えばS have not  過去分詞〜に相当する没有+動詞 のような半助動詞的使い方もある。これは古の漢文の用法から歴史的に変移してきているわけである。
 和古文は、この影響を受けてか、存在を表す「あり」と対応させるが、中文では、存在を表すときはの仕事になってきて倒置もしなくなっているし、現和語でも「我思う故に、我有り」ではなく「我在り」と書くようになってきている。
 そこで、中文に馴れ親しみ日常的に使っているような人が、「中文法を知っているから漢文は大丈夫大だろう・・・」とばかりに教える立場になったりすると、まず躓くのがこのの使い方である。
 なまじっか(……といっては不遜にして失礼に聞こえてしまうかもしれないが)「文法的に説明・・・」などという漢文の参考書もあるようだが、その場合は往々にして、中文法に依拠しているため=haveとの説明になってしまうものである。それでもそれなりに意味がとれるから文法的な反省が生まれないものである。(つまりは訓読と同じことをやっている!)
 だから、「訓読だけではなく、文法的にも・・・」と銘打つ参考書が手元にあれば、の説明をチェックしてみるとよい。伝統的な訓読法での「難易有無多少は倒置」という文法的大発見が継承されていないという点では、文法的レベルとしては訓読法より後退してしまっているのである。
                                 《続く》
posted by Kyuzen Ichikawa at 12:02| 閑綴帳

2014年05月24日

〈4〉熱烈文信-1-

 さっそく、読者より感想書評をいただいた。そのものは育文社に直接届いたので、先週GHSに転送されており、週末にうけとった次第である。
 さすがに、個々人に直接に返信する暇はないので、ご本人にも快諾を得て、HPにて紹介・返信することにしたい。ただし、個人情報にかかわる部分は適宜改略してある。
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市川久善 様
前略、著書『思考訓練の場としての漢文解析』を読ませて頂きました。
素晴らしい!!漢文参考書の「革命」です。正に読みたい本でした。
更に、素晴らしい点は「考え方」・「根拠」をきちんと説明している事です。
様々な参考書を読んで一番の不満は、問題と答えしかない事です。
その間を繋ぐ考え方、根拠を説明してある本は、殆ど有りません。
不親切極まりないと腹が立ちます。
「漢文」を外国語として「文法」を道具に、頭から読み解きたいと思って来ました。
英文を読む学習中に、伊藤和夫の著書を読んで目から鱗の経験をしたからです。
……自分の受験時代の本や最近の参考書を読みましたが、すべて「訓読」です。
その中で、中野清『漢文なるほど上達法』(ライオン社)に出会いました。氏曰く、
「基本文型、文法、語法を覚えればいい。」まったく同感でした。しかし、
中野氏の本を十回以上繰り返しましたが、私が白文を読んでいくには、
何かが足りませんでした。今思えば「語法の知識」が不足していたと思います。
その後、加藤徹『漢文法ひとり学び』(白水社)が出版され、早速読んでみました。
やはり、白文を読むには、私の実力では何かが足りません。……先生の本を
インターネットで知り、実物を確認して購入、直ぐに読んだ次第です。……英語の
文法と比べながらの説明は解りやすい!! ……
 本書は受験参考書に分類される本ですが、先生には、是非、受験には関係ない
「白文を頭から読み解く為の本」(先生の文法で、古典を練習問題として読み解いて欲しい)
を書いていただきたい。一読者からの無理は承知のお願いですが、宜しくお願いします。
 末筆ながら、先生のご健康と、お仕事の益々のご発展をお祈りします。
             (神奈川県 K.H.)
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 文面からもある程度察せられると思われるが、受験生ではない。「自己紹介」よると、理学部物理学科卒で、大手企業で生産技術に関わってこられての定年後、この向学心である。
 受験生以外からのお便りをいただくことは予想はしていたが、早々に本書の核心を捉えた感想書評をいただいて、我が意を得たり!!とばかりの喜悦をおぼえている。「問題と答えとを繋ぐ考え方・根拠」をもって漢文にあたることこそが、本書の目指す思考訓練≠フ内実である。
 古和人の語学達人が、漢文に対面して、「これはこう読む」と看破した内容を訓読」として伝承してきたのであり、それは「権威」であり、なぜそう読むかとか、そういう読み方でよいのか?というギモンを持たないことが礼であり、疑問を抱くこと自体が不忠であったという伝統がある。(これに関しては、NHKの『タイムスクープハンター』に描かれたことがある)

 私自身は、漢文や中国語の学識者の世界とは、まったく関係ないところで思考しているゆえに、参考文献もなく、学術的動向への配慮などもなく、本書を書き上げた次第であり、だからこそ、類を見ない内容であり、あとがきに「私製文法」と断ってあるゆえんである。

 ちなみに、上記に登場する、中野清氏(元代ゼミ漢文講師・私との関わりは本書で紹介したとおり)も、加藤徹氏(東大文学部中国文学科卒)も、ともに中国文学の専門家である。加藤氏の『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(光文社 2006年)は、最近電子ブックで読んだところであるが、さすがに専門家の知識は‘半端なく’、常々知りたかったことや、あらたな知見(文法ではない)を得られて収穫であった。

 そもそも、これだけの歴史と伝統があって、かつ、参考書類でさえ昔から多く有る中で、あえて『思考訓練の場として』との受験界のエンブレムを背負うにあたり、漢文参考書として、二番煎じの類いではありえないことは無論いうまでもなき事である。
『思考訓練の場としての体系化学』の続く、GHSのメソッドの公開の一環としてもまた、同様である。それゆえ、KHさんの「革命」という文言は、文字通り、額面通りであり、まさに正鵠を射たものであるといえる。漢文を頭から読むという情熱のもとに、あらゆる文献を渉猟してきたからこそ一読にして本書の核心≠ノふれえたのであろう。

 開設の辞でも言及したように、本書は元々、ビジネスマン・一般大衆、漢文に興味のある大人向けに書き下ろしたのが初稿であった。KHさんのために、少しバラすと、初稿の最終章は、センター試験過去問の文法解析ではなく、『般若心経』 のさわりの漢文解析であった。お経だって漢文だ、文法的に読める!!というデモンストレーションのつもりであった。

 本HPの「練習問題」というコーナーは、ver.3のGHS内部テキストに収載してある各種問題集から拝借した文法練習問題をとりあげていこうかと思っていたが、ちょっと軌道を変更して、第二章のつづきにしようかと思いはじめた。
 ページの関係もあり、矛盾と四面楚歌の一部しかとりあげていないが、教科書にあるような有名古典漢文を、もっととりあげて教材としたいとは思っていたことである。もちろん、一般読者から、「この漢文はどう解析するか」とか「漢文解析をしたのでコメントがほしい」というようなものが送られてくれば、その都度、まずはHP上で答えたい、と思う。
posted by Kyuzen Ichikawa at 13:50| 読者から

2014年05月14日

〈3〉亜馬孫より来るあり

 「亜馬孫」=アマゾンである。本書を読まれた方には、これが表意文字ではなく表音文字であることをすぐに理解されるであろうが、和語が表音文字と表意文字を混ぜて使うのに対して、漢文的文化には「漢字以外は文字を認めない」という原理原則があるからである。とはいえ、現代中国語は横書きであり、記号も用いるし、発音表記にアルファベットもどきを使うくらいに軟化してはいるのだが。
 もちろん、欧語には表音文字しかないから、和語というのは不思議な存在なのである。ちなみに、古代エジプトのヒエログリフは、象形文字=表意文字ばかりかと思いきや、表音文字も混ざったもので、それゆえ解読にあたった欧米の学者は大変な苦労をしたといわれている。
 ・・・で、なぜアマゾンかというと、先日、おススメ本として『思考訓練の場としての漢文解析』を紹介するメールが携帯に届いたからである。
 たしかに、漢文の本をいくつか検索したから自動的におススメメールとなったのであろうが(かつ、氏名はたしかにちがうから…)、送られた方にしてみれば苦笑するしかない。ただ、これでわかったことは、アマゾンがこうやってマジメに販促をやってくれているということであり、かつて我々が学生だった時代のように、書店や図書館に足を運ばなければ ‘書との出合い’が果たせなかった状況とは違い、少しでも漢文に興味をもった人には情報が向こうからやってくる環境となったわけである。育文社のように小さな規模では、営業の足が全国津々浦々には到底届かないが、このようなアシストができたことは善き追い風であろう。
 連休の調整によって、GHSの授業は一週空いてしまったが、この間は、テキストを読み切る時間に充てるように指示しておいた。今週からの授業が愉しみである。このインターバルによって全体像が頭に入った生徒は、素早く該当ページを答えるようになってくれるからであり、活きた索引のネタ集めが進むであろう。随時反映していくつもりである。
posted by Kyuzen Ichikawa at 12:04| 閑綴帳

2014年05月04日

〈2〉索引は手作りにて

 伝統的に(?)思考訓練シリーズには「索引」がついていませんが、その例に習わず、実は「索引」を載せたかったのです。だから試作品は一応ありましたが、以下のような事情で初版には間に合いませんでした。 出版物の索引というものは通常、著者というより編集者の仕事の域かもしれませんが、「漢文解析で」あ、い、う…と機械的に語項目を拾うのは無意味です。というのは、1つには、同じ漢字でも、和語と漢語で使い分けているからです。だから、漢語索引と和語索引に分けようかと考えたこともあります。
 すると、本書のコンセプトからいうと、漢語の場合は、訓読ではなく「音読み」索引が妥当ですから、漢語はカタカタ検索、和語や文法事項はひらかな検索となり、1つの索引にした場合、どういう順序で並べようか、と悩み惑うことになります。そもそも索引のスタイルが決まらない上に、出版物のページというのは中々確定しないものですから、そうこうしている内に、「見切り発車」となった次第です
 ですから、このHPでは、コツコツと一項目ずつ、手製の「索引」を順不同で提案していきます。すでにGHSの授業は始まって先日2回目の講義をしましたが、問題を解答解説するなかで、必要に応じて「漢文解析」を参照しています。その問答が、「索引」の素材となって積み上がっていきます。
 それをHP中の「手製索引」にて随時公開していく作業を通して、実用的な・活きた索引を作り上げていくことになるでしょう。

posted by Kyuzen Ichikawa at 22:49| 閑綴帳

2014年04月24日

〈1〉開設の辞

 本日から、思考訓練・漢文解析のブログを始めます。
著者の市川久善です。名前としては「ひさよし」と読みますが、「キュウゼン」と音読みすると、ちょっと漢文テイストですし、古代の留学僧の末裔のような錯覚をしてほしい(^_^;)のでKyuzenと書いてます。

さてさて、これまでの経験から、最初から気合いを入れて、HPにあれこれとコーナーやページを作ると、結果的に更新が遅くなるものなので(´〜`ヾ) ・・・、このブログでは、Q&Aとか、漢文書籍類の感想・コメントとか、授業の小ネタのお裾分けとかなんでもありにして、その中から、保存してまとめておいた方がいいものを、各コーナーに移していく形にしようと思います。

 したがって、とりあえず、読者の方はここを開けば状況がつかめる、そんな流れでやりたいと思います。ではこれからどうぞ、よろしくお願いします。(=´ー`)ノ 
posted by Kyuzen Ichikawa at 12:16| 漢文解析事始